難とは過去世の悪業が引き起こしたもの。この迫害を堪え忍び、弘教に励んで、その罪業を消し終わって、ついに成仏した不軽の姿を見る時、仏道修行とは障魔との戦いだといっても、帰するところ、自身の先業との戦いであることが明確にわかる。
日蓮大聖人の仏法は冥益が柱であることは頭でわかっていても、たまたま障害、困難、一時的な悪い結果にぶつかると、不信を起こす人はいないか。その原因は、仏力・法力が小さいからでも、他の人が悪いからでも、けっしてない。原因を自身の内に見抜くことを、仏法は教えていることを忘れてはならない。
過去世の宿業が本源の因。強い信心で進む時、初めて重い宿業も転じて軽く消していける。ただ、その宿業が消えんとして現れるのが、大小の難であるにすぎない。
妙法とは宇宙根源の法です。その法と冥合した場合には、功徳に満ちた境涯を得、それに逆行すれば、マイナスの結果が出るのは当然です。
最初はそれとわからないものだろう。だが、そこに一つの生命の波動が生じ、一定のリズムが脈打ち始めることは、どうしょうもない事実なのだ。
だから、私たちは地道に、水の流れるがごとく、信仰していくことが大切。初めは、思い通りにならないこともあるだろう。一体、諸天善神は何をしているのだろうと、情けなくなる場合もあるかもしれない。だが、負けてはならない。最後は勝つとの確信で、十年、二十年後を目指し、着実に前進することだ。すでに成仏への軌道に入っている。
こうせんるふのため頑張っていこうと命のど真ん中に偉大な師匠をおいて、どこを切っても金太郎飴ではないけれどこうせんるふの自分でありたいとおもいました。一日一万のお題目への挑戦を持続してまいります。