勤行・唱題を終えて、生活のなかに戻れば、再び生命は九界に帰る。したがって、この意味での成仏とは題目を唱えているとき。刹那のことである。ただ、日々欠かさず勤行し、唱題を続けていくことによって生命の奥底に仏界の生命が確個として樹立されていく。
さらに、この勤行・唱題という仏界涌現の作業を繰り返し、生涯続けていくことによって、わが生命の仏界は、あたかも双葉から大樹に育つように、堅忍不抜の存在となっていくのである。これがまた道理である。
いわゆる宿業に定業と不定業とがあるが、その定業を形成する要因の一つに慣習性がある。仏界を涌現する御本尊への勤行、唱題も、これを毎日、真剣に、生涯繰り返していくことによって、わが生命に仏界という宿業を定業化することになる。
たとえ妙法とはまったく縁遠くみえるような人があっても、必ず妙法を受持することになる。
どんな立場や特質をもった人でも、必ず妙法に帰着せざるをえない。
生命の厳然たる法則からいって、すべての人は妙法を志向している。
意識するしないにかかわらず、生命自体は妙法へ、妙法へと動きつつある。
妙法との出会いは、まず、妙法を受持した人との生命の感応があって初めてなされる。
仏界を涌現しつつ仏法対話を行う友人の生命に縁することにより、九界に覆われていた人間の生命が次第に仏界を感じ始める。
利他の実践は相手の九界に覆われた生命のなかから、本来内在している南無妙法蓮華経の智慧をひき出すための助縁となってあげること。
利他の実践は相手の生命のなかにある九界が内在する仏界を感じるようになるまで、仏法対話をとおして、私たちの歓喜に躍動する生命の波動を送りつづける作業。
したがって、仏法の話しをするときの私たちの生命がいかなる境涯にあるか、ということが、そのさい、たいへん大切な要素になってくる。
相手に仏法の話しをするとき、相手の九界の生命が、仏界を感ずる助縁になるほど、生命が躍動し、歓喜に満ちていなければならない。
他者に働きかけることによって、他者の生命を触発し、今度は逆に自分の生命がより深く触発され、さらに、それによって他者の生命を一層深く触発していく。この相互に生命を触発し深化していく過程が利他の実践。
嫉妬心を取るには?