組織の第一線で、一つ一つきちんと戦っていくことが基本であり、その地道な活動の中でこそ信心は磨かれ、深められていく。
家庭訪問する、個人指導に歩く、弘教に励む、同志の面倒をみる。---こうした基本の活動が、信心の基礎体力をうつけていく。したがって、いくら役職を持ち、巧妙に組織の中で戦っているような姿を見せても、基本となる仏道修行を怠り、広布の組織活動をないがしろにする人は、結局行き詰まり、信心の軌道から離れていく。それは、信心を退転し、学会に造反した幹部の姿を通して、皆様方もよくご承知のことと思う。
ともあれ、たとえ役職がなくとも、組織の第一線で、日々、懸命に活動している人を最高に尊敬し、大事にしていくことが、信心の指導者であることを忘れてはならない。
自分の慢心に打ち勝った人のみが、人生の凱歌の記録を残すことができるのである。
すなわち彼は絶対に「もうこれでいい」という慢心には陥らなかった。
彼は言う「上達する努力とは、一にも二にも練習です。もう自分は練習なんかしなくっても負けやしないと思ったとき、その人は下り坂にかかっていると言うことを忘れないで下さい。
慢心といっても自分でそう思っている人間はいない。ましてや、厳しい勝負の世界にいれば、慢心は続けられるはずもない。
ここでいう慢とは「もうこれでいいのではないか」という闘争心の衰えのことである。
自分の現状に甘んじ、進歩を忘れた停滞の姿である。大切なことは、実はそれ自体が、すでに敗北の姿であるということである。
…「もうここまでやったのだから」と無意識のうちに「挑戦の魂」を失うからであろう。いったん限界を突破した人間は、あとは「自分との闘争」といえる。