日蓮大聖人門下の、南無妙法蓮華経と唱え奉る者はこれ以上はないという宝の集まりを求めることなく、自ずから得た長者なのである。
ゆえに、この大法を持った皆さま方は、すでにどんな大富豪よりも豊かな「生命の大長者」なのである。
この世のいかなる富も死後まで持っていくことはできない。しかし「生命の大長者」は
、宇宙大の財宝を自由に使いながら、永遠に「幸」の旅行をしていける。それが人生の勝利者の証なのである。福運を積むために、労苦の仏道修行はある。しかし、福運は、積まれると、あふれるように出てくるものである。
それは、いったん宝の箱を開けることができれば、そこから無量の宝物を取り出せることにも似ている。
ゆえに絶対退転してはならない。魔に負けてはならない。それは「仏種」という「福徳のなる木」を失い、自ら破壊することになる。
自分が本当に変われば、声の響きが変わる。「新しき生命」は「新しき声」を伴う。「人間革命」は「声革命」を伴う。
ある研究では、話し手の意想を伝える力の内、30%強が「声の調子や話し方」によるという。話の「内容」とともに「声」そのものが、多くを語っているわけである。
同じ指導でも、生命力のある声とそうでない場合とでは、相手への感応がまったく違う。それは、声の大小ではない。声に表れた一念の強さなのである。
学会の勝利はある意味で「声の響きの勝利」であった。座談会、個人指導、会合、御書講義。そこに響き合う確信ある声、朗らかな声、はずむ声、そして信念の叫び、慈愛の励まし。それらにひかれて、多くの人が正法の門をくぐったのだ--と。
声は正直である。文章は嘘をつくが、声はごまかせない。人々の「心」を動かす真心の「声」は、強く、清らかな「心」の反映である。また反対に、虚ろな響きしか出ない「声」の人には、自分の弱さ、複雑性のある場合が少なくない。