池田先生ご指導

それまで悶々としていた苦悩の生命が、勤行、唱題を始めてから次第に消え、夜もぐっすり眠れ、食事もおいしく食べられるようになり、病状も日一日とよくなっていきました。

スポンサーリンク

池田先生のご指導より「勤行」その1


「朝な夕な、勤行・唱題の声が朗々と響きわたる家庭からは、不幸や災難が退散しないわけがない」


私たちが日々の勤行で読誦している経文の中に出てくる「衆生所遊楽」。戸田第2代会長は、この言葉を引用して「御本尊を信じきった時に、生きていること自体が楽しい、何をやっても楽しいという人生になるのである」


ともかく、題目を唱えていけば、自分が変わります。自分が変われば、環境も変わる。したがって、いかに多忙であっても、勤行・唱題という根本の実践は、決しておろそかにしてはならない。その根本がいい加減になれば、すべてが空転してしまい、価値を創造していくことはできないからです。


妙法という大宇宙の根本の法則に合掌する「勤行」の会座である。三世十方の仏菩薩と一体となって、諸天を動かし、国土まで照らしゆく荘厳な儀式だ。


「自行」とは日々の勤行・唱題であり、「化他行」とは、他者の幸福を願い、弘教に励むこと。この二つは、いわば“車の両輪”のようなもので、どちらか片方だけでは、思うように前へ進むことができない。


私どもの日々の勤行・唱題が、どれほどすばらしい追善回向となっていることか。妙法の音声は、すべて、赫々たる太陽となる。
亡くなられた方々も、今、生きている方々も、私たちの朝夕の勤行で、燦然と輝きわたる太陽が万物を照らし慈しむように、その生命は必ず福徳に包まれていきます。「慧光照無量」であり、「寿命無数劫」です。仏の智慧の光は、一切を遍く永遠に照らします。決して嘆くことも、恐れることもありません。


朝晩の勤行の時に、まず真剣に願いをかけるのです。
自分が願いたい事を順番に紙に書いて、勤行のあとの題目の時に、一つずつ自分の生命に叩きこむように真剣に願うのです。


勤行は、壮麗な宝の塔に向かって、天馬、名馬、駿馬にまたがり、進むように、生命の勢いと張りのあるもの。
ジェット機が、ロケットが、大空へと飛びゆくように、「法性の大空」へ「幸福の青空」へ勤行、唱題のエンジンで、生命力豊かに、また、軌道正しく、飛翔していくのである。


勤行で経を読むのも、仏を賛嘆申し上げることであり、それはそのまま自分自身の仏界を最高に賛嘆し、強めていることになる。


すなわち「勤行をしましょう」「会合に行きましょう」「御書を拝読しましょう」等々、広宣流布の方へ、妙法と成仏の方へと「指し導く」指導者の皆様こそ、尊き「有徳」の人なのである。


朗々と勤行・唱題する。仏法対話にいそしむ。そのなかで、生命がどんどん清らかになっていく。その心で家庭や職場に帰っていけば、そこも潤っていく。


戸田先生は、御本尊を拝んで大歓喜がわかなくては真の信仰とはいえない、とまで言われました。歓喜があれば功徳の大輪は、ますます大きくなる。しかし、こればかりはそれ、歓喜、歓喜などと言っているだけでは、歓喜はでてこない。勤行で足がしびれて、まだ終わらないか、ああ、歓喜、歓喜、それでは歓喜になりません、とも語られていた。勇んでなすのが信心です。真剣に戦っていればこそ心が弾む。仏法に悲壮感はありません。正義は楽しです。


それまで悶々としていた苦悩の生命が、勤行、唱題を始めてから次第に消え、夜もぐっすり眠れ、食事もおいしく食べられるようになり、病状も日一日とよくなっていきました。


勤行は自転、学会活動は公転!


まさに私たちが「つよりゆく時」とは、御本尊に勤行・唱題に励むことにほかならない。その一念をますます強くしていけば、魔は寄りつきようがない。


御本尊に唱題することが楽しい、友に仏法を語ることが楽しいとなればいい。勤行が苦しくて苦しくてというのではダメです。御本尊が慕わしくならなければ信心はウソです。


毎日の勤行・唱題の持続のなかで、広布に走る信念が踏み固められていったような気がします。つまり、勤行・唱題は、生命の基底部を、揺るぎない大地のように踏み固めていく作業なのです。その大地の上に、職場や学会の組織のドラマが繰り広げられていくのです。そのドラマが自分を強くしていく。
勤行は信心の一番の基本です。今いいかげんな勤行をやっていたら十年、二十年後には必ず失敗する。


増上慢の鎧を着ている人は勤行一つにしてもはりがない。そういう人は要注意だ。


学会の組織についていろいろ問題があるというけれども根本の一切の原因は勤行そのものである。


本当に勤行をし、実践した人は学会を築いてきた人達の悩みと苦しみは自然にわかってくるものだ。


題目をあげ勤行をし、学会の悩みを知っていこうという気持ちがなければ批判になってしまう。