大御本尊様を信じまいらせて題目を唱うるとき、信は因となり、口唱は果となって、この信行倶時にして仏果をえ、われわれの生命のなかに、久遠無作三身如来の御生命がヒシヒシと流れつたわってくるのである。これ「生死一大事の血脈」といいうのである。
されば、大御本尊様にむかって、この御本尊様と大聖人様と自分が区別がないと信じて、そのありがたさを心にしみて感謝申しあげ、熱心に題目を唱えるとき、宇宙のリズムとわがリズムと調和して、宇宙の大生命が即わが生命とつらなり、偉大な生命力が涌現してくるのである。泉よりコンコンと水のわきあがるがごとく、地涌の菩薩、法性の淵底より仏前にあらわれるがごとく、強き強き生命力は涌現するのである。これこそ、生活個々にあらあわれた小利益よりも、まことの大利益と喜ばなくてはならない。
われわれの生命も、原因結果の法則に支配されていることは、明らかな事実であります。因果に支配された生命が、われわれの生命であります。生命といったところで、瞬間の連続であって、瞬間以外には生命の実在はない、と断ぜられるのであります。その瞬間とは、真実の存在で、仏法では中道法相とも申します。
しかし、なにゆえに凡夫は、この無量にして無辺の大功徳を得られる大御本尊の正境に縁しながら、疑いを生じてしまうのか。
まだまだ信心も浅いのに、また自身の過去遠々劫の罪業も知らずに、安直に諸天の加護を期待する。かくのごとき安易な信心では現世安穏を願っても即座に叶わず、煩悩即菩提の境地も即座に得られないところから、疑惑をいだいてしまうのである。