池田先生のご指導「役職」について
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「信心」が“本”であり「組織」は“迹”である。「境涯」が“本”であり「役職」は“迹”である。
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学会においては役職はある意味で仮の姿である。
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幹部として心得るべきことがあります。信心といっても、勤行と折伏の実践がないところに信心はありません。口は調法です。いかに教学に精通して、教義を重んじているような顔をしていても、自分が受持した御本尊さえ念頭になく、行の実践を欠いては、これは日蓮大聖人の仏法ではない。そうした幹部は会員を惑わせるだけです。
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「皆さんが活動を推進するうえで、“困っている”ということがあれば、本部長等の幹部に相談してください。また、納得のできない指導をする幹部がいたら、遠慮なく、最高幹部に相談していただきたい。
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“どう見ても、これはおかしい”と思うことがあれば、率直に意見を言うべきですし、最高幹部にも相談してください。もし、幹部に不正等の問題があれば、学会として厳格に対処していきます。
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「人間、誰が偉いのか。幹部だから偉いわけではありません。偉い人とは、お題目を唱える人です。人びとの幸せを願って、懸命に折伏・弘教に励んでいる人です。友の激励に駆けずり回っている人です。その人こそが、人間として最も気高く尊い、御本仏の真の弟子なんです。それはまさに、日々、広宣流布のために汗を流しておられる皆さん方です」
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学会もこれだけ組織が大きくなると、要領のよい、口のうまい、才智の人が役職につき、役職で信心の力があるかのような錯覚におりいる幹部が出てくる可能性がある。未来の広宣流布へのためにも、この一点だけは厳しく心にとどめていただきたい。
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幹部がどうかではない。役職の上下ではない。「行動しているかどうか」である。
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「その組織を動かすのは、信仰に対する絶対の確信と情熱である。その信仰に対する確信と情熱を、組織の中へ、エネルギーとしてみなぎらすことである」「ことに青年の確信と情熱が、信仰によっていやましに高められたときに、組織は、グングンと活動するのである信仰への絶対の確信と情熱」、それが原動力である。役職や命令が原動力ではない。
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幹部になったからといって、その人の信心も完璧になったとはいえない。役職は一方便ともいえる。信心は一生涯のものである。
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自分の方が信心歴が古い、役職が違うとか立場が上であるといった考えにおちいるならばそこにはもはやみずみずしい求道信はない。
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役職や立場などの「位」が、いかに高かったとしても、それにふさわしい「行」がなければ、生命は「元品の無明」という闇に覆われてしまう。
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役職ではない。いわんや学歴などまったく関係ない。
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役職も捨てた、裸一貫の信仰者として、どれだけ人格と力が光っているか。信力、行力、教学力、指導力、社会常識、信心即生活の現実の姿、そして何より、どれだけ真剣に広布に尽くし、法に尽くし、仏子に尽くしているのか。
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心とは策ではない。要領でもない。役職や社会的地位のみでもない。ゆえに、表面的人気や格好にだまされてはならない。
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人目にはよく見えていても、せんじつめれば、その心の奥底をたどってみるならば、根本が名聞であったり、名利であったり、役職と権威への欲望であったりして、根本中の根本であるべき大御本尊への信心においては、かならず弱さがつきまとっていたといってよい。
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家庭訪問する、個人指導に歩く、弘教に励む、同志の面倒をみる。---こうした基本の活動が、信心の基礎体力をうつけていく。したがって、いくら役職を持ち、巧妙に組織の中で戦っているような姿を見せても、基本となる仏道修行を怠り、広布の組織活動をないがしろにする人は、結局行き詰まり、信心の軌道から離れていく。それは、信心を退転し、学会に造反した幹部の姿を通して、皆様方もよくご承知のことと思う。
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学会の組織にも、本質的に「上下」はない。役職について池田名誉会長は〝全て責任職であり、それが学会の役職の伝統である〟と語る。地区やブロックは、人数や地域を考慮した活動の単位だが、各人の幸福勝利を目的に集まったチームと見るべきだろう。
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「人を動かすのは、役職や肩書や格好ではない。『真心』『大確信』『大誠実』――それが人を動かすのだ。心が心を動かすのである」と語っている。
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「信心は、年数ではない。役職でもない。勇気だよ。勇気ある信心が、自分を変え、現実を変え、未来を変えていくのだ」
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