池田先生ご指導

過去の因も未来の果も、現在の一瞬の諸法実相に凝縮されているのであり、その一瞬の転換が過去久遠よりの罪障の消滅も、未来に続きゆくであろう永劫の福運も決定していく者です

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思うに一生といっても、現在の一瞬の積み重ねです。きょうを充実させられない人に、明日の開花はありません。瞬間を大切にできない人がいくら大計を口にしても、絵に描いた餅にすぎない。そのカギが「臨終只今」の信心を確立するかしないかにあるのだと言う、宿命転換の原理を教えられている御文と拝す。
この法華経観発品第二十八の文を、文字通りとった場合は、命終した時千仏が、手を授け、決して恐怖させることもなければ、三悪道、四悪趣に墜とさせることも絶対にない。
このように説かれているのは、死んで宇宙に溶け込んでいく生命は、もう自らの意志ではいかんともできない。その人の生命状態そのままで業火につつまれなければ鳴らない。絶対的な厳しさ。その時に、千仏が手を授けて守護する。これほど力強いことはないに違いない。
また、これは単に手を授けられるということのみでなく、永遠の生命を確率できると言うことでもある。
永劫不壊の絶対的幸福をつかみとの仰せなのだ。
もちろんそれも、臨終只今の信心の持続があってであり、「心の固きに仮りて神の守り即ち強し」であることを忘れてはならない。
御本尊への信と唱題もなくて、自然に千仏が守りにきてくれるということではない。ここは一往、命終した命、すなわち受け身の生命のゆえにこう言われているのであり、根本精神派、あくまで自身が、唱題の行に励むことにより、自分自身の胸中にある千仏の守りを自らあらわしていくとうことにある。