仏界という無上の宝が、すべての人の胸中に輝いている。しかも、それは宇宙の根源にして三世常住の妙法の表れである。
信の一字によって人間としての根源的な迷いを克服していける。信の一字によって私たちは自分と他人を信じられるようになる。人生の幸福を信じられるようになる。時代・社会の未来に希望を持つことができる。
同じように行動しても、心ひとつで、幸、不幸は百八十度変わる。
「心は地獄を天国に変え、天国を地獄に変える」
「よし、これでまた自分を鍛えよう」「また福運の貯金をしよう」「偉大な事業に連なる喜びを感じて行こう」と決めることである。
「広宣流布して行こう」という「心」があれば、すべてが生きる。
「御本尊には、供養すること有らん物は福十号に過ぐ、また、若し悩乱する者は頭七分に破れん」とお認めであります。
これは、御本尊の偉大な功徳を示されているとともに、正法を誹謗するならば罰があることを示されております。
仏法は生命の因果の法則であり、幸福への方程式です。その法則を否定し、逆らうならば、当然、行き詰まらざるを得ません。ゆえに、正しく、力のある教えであるならば、功徳と罰という二つの現象が必ず生じるのです。自分自身の悪を滅して、善を生じていくことが功徳なのです。
つまり、功徳といっても外から与えられるものではなく、自分の生命のなかから、泉のごとくわき出してくるものです。そして、依正不二という仏法の原理で、自分の環境を変え、幸いを万里の外から集めることができるのです。
更に、人の悪を滅し、善を生じさせていく行為が折伏です。ゆえに、折伏を行ずること自体が、人に功徳の道を開くことであり、同時に、それによって自分も功徳を受けていくことになります。これが日蓮仏法です。