例えば、真っ暗な建物や部屋のなかでは、どこに何があるのか分からず、手探りでウロウロするばかりでしょう。机にぶつかったり、思うように歩くこともできませんね。それと同じように、無明に覆われた生命は、自身の生命をよく知らないために、煩悩を制御する手だても知らず、煩悩に振り回されてしまうばかりで、結果として不幸な人生を歩むことになるのです。
ところで、先の暗闇の例えのように、自分自身とは何であるかということが分かっていないとさまざまに周囲と衝突して苦しみを招くわけですが、その「自分は何であるか」に浅い面、深い面、さまざまあるのです。
「無明」の闇が晴れれば、自身の煩悩を正しくコントロールし、価値を生み出していくことができる。
先に「自分」というものへの無明にも、さまざまな段階があることを話したように、当然、そのそれぞれの段階での自覚と努力がなされる場合があります。
ただ、その場合、最も根底にある我が身が妙法という自覚が確立されれば、その上に立っている各段階の自覚よりも確固たるものにしやすいといえるでしょう。