信仰者は「自分を苦しめない執着」になる」「執着を使って幸福になれる」--執着を執着としてらかに見せてくれるのが御本尊であります。あなた方も、執着があると思います。私にも執着がある。こんなに執着があるから、味のある人生が送れるのであり、大いに商売に折伏に執着しなければなないただし、その執着が自分を苦しめない執着にするのがわれわれの信心である。執着に使われてならな。自分の執着を使い切って、幸福にならなければならない。要は大いに煩悩を燃やし、その分、真剣題目をあげ、行動していけばよい。そうすれば、煩悩がバネとなって、自分の成仏が進むです。信心、登るべき「山」を自らつくり、自ら「山」に挑戦していく。その繰り返しです。
———
あなたが勝つことは「万人」が勝てる」立派な例証となるのです。あなたが困難に打ち勝つことは々に「それならば、私も勝てる」「あの人も勝てる」「皆が勝てる」という確信を与える。妙法の力語るのに「たとえば、あの人を見てごらん」と、人々は、あなたの勝利を「比喩」として語れるです。
———
御義口伝
法華経の心を蘇らせ、末法の民衆を救いきるためには「こう読まざるを得ない」というです。こうした文底の読み方は、大聖人の「観心釈」とも言える。単なる理論的な説明ではなく現の中に生活する民衆をどう救いきっていくか、この一点から経文の精神を体得し読んでいかなけれならない。いわば、活釈であり、実践釈である。人間釈であり、生活釈である。