唱題の力は、その人を何ともいえぬ、ふくよかな香気で包んでいく。その、にじみ出る清浄な生命の芳香は、周囲の人々にも、さわやかな、そして明確な印象を与えずにはおかない。
そのことは私の体験の上からも、また身近に妙法の友を知る各界の方々の話からも、間違いはない事実である。
なぜ信心しなければならないか。私は功徳をいただいている。何があっても絶対やめません。信心の必要は、もともとは死後の問題が恐ろしいから、信心するのです。
いまは人は後生のことを考えない。この世の生活がよければ、それでよいと思っている。しかし、死後のことはじつに大切で、もし、地獄に墜ちたら、その苦しみは今世の苦悩には比べられない。だから後生のために信心するのです。
すなわち、信心によってこそ、だれもが不安を感じながら、避けようとしている「死後」という問題を解決していける。この三世永遠の生命観によらずして、真実の幸福はないのである。
ウサギとカメの競争のたとえ話ではないが、一生成仏への長く険しい道を、最後まで登り切れるかどうか、自らの使命の道を全うできるかどうかが信心である。
二十年の信心を続けながら歩みを止めてしまう人もいる。功徳を受けながら初心を忘れ、信心が惰性に流されている人もいる。
また青年時代にそれなりの立場になり、華々しく活躍しているようで、成長が止まってしまう人もいる。それでは、走るのは速いが、途中でやめてしまったウサギのようなものである。
組織のうわべの姿のみで信心は決してわからない。
信心だけは地道に見えても最後まで貫き通した人が、結局は勝利を得る。ゆえに、信心の「心」こそ大切なのである。