法悟空 内田健一郎 画 (6389)
文化・芸術にせよ、風俗・習慣にせよ、人間社会の営みには、多かれ少なかれ、なんらかの宗教的な影響がある。
「西暦」にしても、イエス・キリストが誕生したとされる年を紀元元年としているし、日曜日を休日とするのもキリスト教の安息日からきている。また、「ステンドグラス」も、教会の荘厳さを表現するために発達してきた、キリスト教文化の所産である。西欧の多くの建造物や建築様式には、キリスト教が深く関わっている。だからといって、それを拒否するならば、社会生活は成り立たない。
仏法には「随方毘尼」という教えがある。「随方随時毘尼」ともいい、仏法の根本法理に違わない限り、各国、各地域の風俗や習慣、時代ごとの風習を尊重し、随うべきであるとするものだ。
法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の御本尊を受持し、信・行・学を実践して、広宣流布の使命に生きる――この日蓮仏法の根本の教えに違わぬ限り、柔軟な判断が必要になる。
信心即社会である。妙法を受持した一人ひとりが、人間の英知の所産である文化等には敬意を表しつつ、社会に根差して信頼を勝ち得ていってこそ、世界広布も可能となる。
ましてや、ベートーベンが「交響曲第九番」に取り入れた合唱部分である、シラー原詞の「歓喜の歌」には、「神々」との表現はあるが、それは特定の宗教を賛美したものでは決してない。
山本伸一は、一九八七年(昭和六十二年)十二月、学生部結成三十周年記念特別演奏会で、メンバー五百人による第九(合唱付)を聴いた。その時の感動が忘れられなかった。
そして、創価学会創立六十周年を祝賀する本部幹部会の席上、創立六十五周年には五万人で、七十周年には十万人で「歓喜の歌」を大合唱してはどうかと提案した。この時、日本語だけでなく、「そのうちドイツ語でもやりましょう!」と呼びかけたのである。
偉大な音楽・芸術は、国家・民族の壁を超え、魂の共鳴音を奏で、人間の心をつなぐ。