


今生に法華経を弘通する行者自身に、過去の重罪が現出しきって、それを消滅し去ることが成仏なのである。

むしろ、立派そうに見せるために苦労することは、その人の力のないことを人にすすんで示すようなものである。

いつの時代、いかなる世界であれ、六破羅蜜を修め、観心の修行をこらしていった果てに到達するのは、南無妙法蓮華経という不思議の一法の悟りにほかならない。

生命力とは、未来を信じる力であり、そして希望を日々新たにし続ける力の異名ともいぇる。

妙法は、さらに掘り下げ、深く究明し、過去世の悪因といっても、所詮は、この現在の一念におさまる。その一念の悪因が悪果とあらわれることを明かす。

大宇宙は、瞬時もとどまりません。常に動き続けている。その究極の法則こそ、法華経の真髄である南無妙法蓮華経です。「当に知るべし日月天の四天下をめぐり給うは仏法の力なり」です

この妙境としての御本尊は、ただただ、末法の私達の信心の二字の中に在って、余処にはないのである。 いかに、信心が大切であるかは、どれほど言っても言い尽くせるものではない。

題目が不足していれば、一切は空転してしまいます。いたずらに気が焦るだけで、思うように事は運びません。
