いずれも先祖代々の邪宗教に染められた我が家の謗法を懺悔して、自身の汚れた生命を、法華経の題目で染め変えていこうと真剣に唱題した結果の実証なのである。
一人の人の信心が先祖にも子孫にも、上下七代、さらには無量生にわたって影響するとの御金言であり、一家の主人が妙法の信心を確立した時には必ず家族眷属にも影響して、一家和楽の実現につながる、との御聖訓である。
御本尊を無二に信受しきる人には、時間の隔たりをこえ、大聖人に直接、指導をうけて、人間革命、生活革命、さらには、広宣流布の活動に励むことができるという、歓喜の実感が湧いてくるのです。
万物の根源である南無妙法蓮華経、この妙法から、一切のものが出ています。妙法には宇宙の本源力が強く脈打っているのです。この強大な流れにおのが生命が冥合するとき、歓喜と清らかな強い力が、各人の生命にみなぎってくるのです。
如意宝珠とは、一つの珠から宝をいくらでも無数に、意のままに、取り出せるという珠のことですが、御本尊がそういう力を秘めているのは、宇宙万物の本源であり、一切のもののもつ徳用をもっているからです。一切の望みをかなえる不思議な力をもつとされる如意宝珠--私たちの信心実践の立場で考えてみるべきことは、意のままにというけれど、その意がいかに強いかということです。
仏法の原理は、あいまいさを許さぬ厳しさをもっています。自行化他の妙法を唱えないかぎり、絶対に仏の生命は涌現しないのです。
いかに策を用い、力を尽くそうとも、妙法を唱えることをしなければ、生命の本源を侵してくる魔の力を撃退することはできませんし、題目が不足していれば、一切は空転してしまいます。いたずらに気が焦るだけで、思うように事は運びません。
家庭指導、友好活動をはじめとする仏法対話も、仏という魂魄を欠いては、ただ凡夫の言動に終わり、相手の生命に響く対話も不可能なら、相手の心に動執生疑を起こして魔を打ち破ることもできません。