池田先生ご指導

妙法は、さらに掘り下げ、深く究明し、過去世の悪因といっても、所詮は、この現在の一念におさまる。その一念の悪因が悪果とあらわれることを明かす。

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仏法は因果の理法であり、己れ自身の宿命との厳しい対決の道である。ゆえに、そこには、おまけもなければ、割引もない。他人には、どうすることもできない。不幸は自分がつくったものであり、罰は自分の過去の業因による結果なのである。それが、生命の実相である。これに気がついて、自己の宿命と取り組み、強盛な信心によって解決しきっていかなければ、永久に幸せはこない。
仏の慈悲とは、決して、苦しんでいる衆生から、その罰を割り引いたり、福運のおまけをつけたりされることではない。あくまでも、その衆生に生命の厳しき実相を見つめさせ、強い信心を起こさせしめて、正しい行学を実践せしめ、しかして自分の力で自分の宿命を解決させるのである。これすなわち、厳父の慈愛である。


大御本尊を信ずる一念は、無作であり、本有である。
信心とは大御本尊に境智冥合していくことである。
大御本尊は、大宇宙の本源の生命そのものであられる。したがって、ここに境智冥合することが、最も、大宇宙のリズムにかなった、自然の姿であり、ありのままの、本然的な姿なのである。


観念的に理論を述べているのは迹門の段階である。本門の教えは、どのように自己自身が人間革命したか、成長したか。生活に功徳を受けているか、また、広宣流布を推進し、社会のため、民衆のために働いているか等々、事実の上で実践され、証明され、語られていくのでなくてはならない。


爾前経では、前世の悪因が今世の悪果を招いたのだ等と説いたが、妙法は、さらに掘り下げ、深く究明し、過去世の悪因といっても、所詮は、この現在の一念におさまる。その一念の悪因が悪果とあらわれることを明かす。
この最も根本的な因果倶時の法が解明されることによって、過去世より積み重ねてきた悪因の煩悩も、瞬時にして菩提となし、善因の福運は、ますます光輝くことが可能となる。
御本尊を受持し、折伏を行じ、広宣流布のために戦っている人の生活は、努力すれば努力しただけ、必ず、その結果が出てくる。信心なき人の生活は、十の努力をしても、出る結果は、二あるいは三等であり、努力に比してカラ回りに終わってしまうことが多い。かえって、逆に、努力すれば努力するほど苦しくなるという例も少なくない。