本日の御書

本日の御書 凡夫にてをはせし時不妄語戒を持ちてまなこをぬかれかわをはがれししむらをやぶられ血をすはれ骨かれ子を殺されめをうばわれなんどせしかども無量劫が間一度もそら事なくして

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【御書本文】
凡夫にてをはせし時不妄語戒を持ちてまなこをぬかれかわをはがれししむらをやぶられ血をすはれ骨かれ子を殺されめをうばわれなんどせしかども無量劫が間一度もそら事なくして其の功に依りて仏となり給いて候が無一不成仏と申して南無妙法蓮華経を只一度申せる人一人として仏にならざるはなしととかせ給いて候(南条殿御返事p1573 n2157)

【通解】
(釈尊が)凡夫であられた時、「妄語を言わない戒」を持って、眼を抜かれ、皮をはがれ、肉を破られ、血を吸われ、骨は枯れ細り、子供を殺され、妻を奪われなどしたけれども、無量劫の間(計り知れないほど長い間)、一度もうそがなく、その功徳によって仏になられたのであるが、
(その釈尊が)「一人として成仏しない者はない」と経文(法華経方便品)にあるように、「南無妙法蓮華経をただ一度でも唱える人は、一人として仏にならないものはない」と説かれているのである。

【先生の指導から】
「うそ」を言わないのが仏様であると仰せである。「うそつき」は絶対に仏ではないということである。
その、うそを言われない釈尊が、「題目をただ一遍でも唱えた人は、必ず仏になる」と仰せである。何より御本仏・日蓮大聖人がそう断言しておられる。それほど、妙法の力は広大無辺なのである。
いわんや、日々、妙法を唱え、長年にわたって広宣流布に励んできた仏子が、成仏できないはずがない。御本仏の大慈悲の仰せと、悪侶の脅しとは、まさに正反対である。
「一遍の唱題に無量の功徳」がある。ゆえに「信心」ある限り、真の仏子には永遠に行き詰まりはない。自在であり、自由であり、広々とした「知恵の道」「大福徳の道」が、時に応じて、限りなく開けてくる。