本日の御書

本日の御書 総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるうせう房がごとし、わ御房もそれていになりて天のにくまれかほるな。 のぼりていくばくもなきに実名をかうるでう物くるわし、定めてことばつき音なんども京なめりになりたるらん、

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【御書本文】
総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるうせう房がごとし、わ御房もそれていになりて天のにくまれかほるな。
のぼりていくばくもなきに実名をかうるでう物くるわし、定めてことばつき音なんども京なめりになりたるらん、ねずみがかわほりになりたるやうに鳥にもあらずねずみにもあらず田舎法師にもあらず京法師にもにずせう房がやうになりぬとをぼゆ、
言をば但いなかことばにてあるべしなかなかあしきやうにて有るなり(法門申さるべき様の事p1268)

【通解】
総じて日蓮の弟子は京に上ると、初めのうちは(初心を)忘れないようであるが、後になると天魔がついて正気を失ってしまう。少輔房のようなものである。
三位房、あなたもそのような姿になって諸天に憎まれないようになさい。
京に上って、いくらも経ってないのに、実名を変えたということであるが、狂っている。きっと言葉つきや発音なども、京なまりになったことであろう。
ねずみがこうもりになったように、鳥でもなくねずみでもなく、田舎法師でもなく京(みやこ)法師にも似ていず、少輔房のようになってしまったと思われる。
言葉は、ただ田舎言葉でいるがよい。(どっちつかずなのは)かえって見苦しいものである。

【先生の指導から】
大聖人の厳愛の指導にもかかわらず、三位房は、後に退転し、悲惨な末路をたどった。
名聞名利、毀誉褒貶に絶対に流されてはならない。これは、永遠にわたる、民衆仏法の重大なる教訓である。