主人の徳を讃えるというと、何となく、封建制度の名残の様に思わせる。殿様に忠義を尽くしたとか、使われている主人に、忠義をつくしたとかいう事が、美談として語られたのは、確かに封建時代の事であった。その名残が、明治・大正までも続いた。
現在の様に、労働組合が幅をきかせ、ストライキが、当時の権利として行われる時代には、主人などと、昔の様に敬う事は認められない。また事実において、主人という様な者が、有り得ないかもしれない。会社なり、役所なり、その機関において、運営の中心である人物は存在する。しかし、その人物を主人とする訳にはいかない。こう考えてくると、主人という者がないが故に、主徳を讃えるという事が、何となく変な気持ちになるのであろう。
しからば、主人たる者が、現在の世の中に絶対にないものであるが、時代の変遷につれて、主人の形態も変わってくるだけで、主人は厳然と存在する。昔は、主人の代表は国王であった。日本では、天皇をもって主人となした時代もある。しかし現在においては、国王や、天皇や、雇用主ではなく、社会それ自体が主人なのである。社会といっても、種々の社会がある。しかし、これを代表するものは、国家社会であろう。
国家社会が、我々個人に与える恩恵は、非常に偉大なものである。もし、国家社会が乱れているとすれば、その国の人々の苦難は言うばかりもない。また、国家社会が平和で強力であるとすれば、その民衆の受ける幸福は甚大なものである。しかして、国家社会というものが、個人より成立しているが如く見えるが、そうではなくて、国家社会それ自体に、個人を決定する力があるのである。よく、時勢の流れという様な事を聞くが、これは、社会が変化していく状態を言ったのであり、社会の形態が変わってくる事である。
また、時勢には勝てない、という様な事を言うが、これは、国家社会の個人に対する影響を物語ったもので、旧社会の生活に慣れた者が、新社会の生活に順応できなくなった時に、時勢に勝てない、というのである。
この様に、個人を決定していく社会の力、及び形態を見る時に、主人としての性格を、我々は、はっきりと認める事ができる。故に、初代牧口会長が、その価値論において説かれた如く、社会に利益を与える事が善と定義されるのである。 社会に利益を与える善は、即ち、忠義とも言えよう。
是くの如く、社会という主人をよく理解できたならば、感謝と報恩の念が、自然に湧き出て来るであろう。然るにその様に考えると、仏の力は、社会以上のものであり、個人を社会以上の力で決定し、かつ尊厳にして、偉大なる加護を与えているのである。 ここに、仏に対して恩を知ると共に、報恩がなくてはならない。
されば、知恩・報恩の故に、吾人は、折伏の行にいそしまなければならぬ。また、社会の徳は知る事ができても、仏の主徳を知らない者のみが、世に充満している。それは、親を知らない者であり、真の主人を知らない者である。 故に吾人は、末法の御本仏・日蓮大聖人を信じ奉れと叫ばざるをえない。同志よ! 共々、末法の御本仏、我らが主君日蓮大聖人、と声を高らかに叫ぼうではないか。