本日の御書

本日の御書 悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり、善の中の大善も又又かくのごとし、目蓮尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が

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【御書本文】
悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり、善の中の大善も又又かくのごとし、目蓮尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代下七代上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う(盂蘭盆御書1430)

【通解】
悪の中の大悪は、その報いの苦しみを、わが身に受けるだけでなく、子と孫と末代に七代までもかかるのである。
善の中の大善もまた同じである。目連尊者が法華経を信じられた大善は、目連尊者自身が仏になっただけでなく、目連尊者の父母も仏になられたのである。
また上七代、下七代、上無量生、下無量生の父母たちまでも、思いがけなく成仏されたのである。

【先生の指導から】
仏法を破壊する罪は、本人はもちろん、縁する多くの人々にまで大きな苦しみをもたらす。その現証は、あまりにも厳しい。ゆえに、大聖人は正邪に峻厳であられた。謗法や、破和合僧の動きとは、断固戦わねばならない。そうでないと、自分が悪と同じになってしまう。
中国の革命作家・魯迅は、虐げられた民衆の側に立ち、次のように述べている。
「時には寛容は美徳なりとも思う、が、すぐ、これは卑怯者が発明した話じゃないかと疑わしくなってくる、彼には復讐する勇気がないからだ。あるいは卑怯な悪者がこしらえた話かもしれぬ、人には危害を与えておきながら、人の報復を恐れて、寛容の美名でごまかしているからだ」
正邪をあいまいにし、ごまかしてはならない。それは結果的に、善の勢力を弱らせ、悪をのさばらせることにつながってしまう。悪を悪と言いきる「勇気」こそ、善を広げゆく根本なのである。