戸田先生ご指導

われわれが日々拝する大御本尊は、われわれ凡夫とは関係ない雲の上の存在であり尊上無比の存在であると拝し、われわれ下賤(げせん)の者のつたない日常生活現象とは、およそかけはなれた存在であると拝することは、誤りである。

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われわれが日々拝する大御本尊は、われわれ凡夫とは関係ない雲の上の存在であり尊上無比の存在であると拝し、われわれ下賤(げせん)の者のつたない日常生活現象とは、およそかけはなれた存在であると拝することは、誤りである。

尊上無比の大御本尊は、じつに日蓮大聖人の御当体そのものであられるのである。

ゆえに、御義口伝には「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」とおおせられてる。さらに、日蓮大聖人は、われわれごとき迷える凡夫の主・師・親であらせられ、「しう(主師)父母(親)」であらせられるのである。
かくて、日蓮大聖人の大慈大悲によって御建立あそばされた大御本尊を拝することがただちに、われわれ凡夫にとっては、したしく久遠の御本仏を拝することであり、したしくおのれの主・師・親を拝することになるのである。