法華経の行者と直接、対決するのではない。つねに裏であやつろうとする。それが僭聖増上慢の「くせ」です。仮面をかぶった生き方が身についてしまっている。本当は臆病なのです。そこで世間に向かって、また権力者や社会の有力者に対して、法華経の行者の誹謗・中傷を繰り返すのです。
俗衆増上慢を “手先” とするわけですね。いかに悪辣で卑劣であるは、この一事を見ても明らかです。
西洋の異端審問も、同様に、聖職者は直接、手を下さなかったようです。密告と拷問によって無理やりに「死刑」と定め、しかも自分は直接に死刑を宣告したり、処刑したりしない。ただ、その犠牲者を世俗権力の手に引き渡すわけです。
自分は手を汚さない。偽善者は、どこまでいっても偽善者ですね。
しかも権力に引き渡す時、「私たちは、汝の命が助かるよう、慈愛をもって願うが、やむなく汝を捨てて世俗の法廷に引き渡す」という文書をつけたらしい。死刑を前提にして引き渡しながら、これほどの偽善はない。
ともあれ悪は結託する。連合軍になる。分け前を得るために団結の姿を示すのです。一方、善は利得と無縁なために、孤立してしまう。この悲劇を転換しなければならない。善が団結しなければなりません。