私は、これまで多くの人々の信心の姿を見てきた。
たとえご病気になった場合、その病魔に流されて愚痴っぽくなり信心が弱まる人と、逆に生命力を強めて病魔を克服していく人がいる。信心の弱い人は、しだいに魔に流され濁った生命となり、敗れてしまう。
信心がなくなることほど、怖いものはない。
要するに信心強盛の人は、自身の不幸を見つめながら、豊かな唱題によってすべてを堂々と乗り越えていくものだ。
功徳といい、罰といっても、結局は自分自身が実感していくものである。
喜びも、悩みも、苦しみも、自分がよくくわかるし、他人からはわからないものだ。
たとえば、財をなし、社会的名声も得て、叙勲の栄に浴した喜びの表情であっても、胸中にはいいしれぬ苦悩をかかえているかもしれない。
また、経済的には恵まれない年配の婦人であっても、胸中では、太陽が昇りゆくような幸せを感受しているかもしれない。
生命の内奥の幸福感は、結局は自身の胸中にどれだけ仏界が湧現されているか、である。
また、どれほどの成長の喜びと希望の輝きへの実感をもっているかどうかが、幸福への大きな基準となるとはいえまいか。
ありがとうございます。
すべて周りのせいにして、離婚を考えていましたが、違う事、気づかせいただきました。
何事も自分自身と思うのですが……ついつい流され、毎朝の唱題で、引き締めて参ります。
ありがとうございます。