池田先生ご指導

勤行しないということは、例えば、優秀な機械を手に入れておきながら、電流を 通さず、使用していないことに等しい。

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妙法の信心に生き抜く限り、一切に少しも無駄がない。すべてが「幸福」の方向へ、「成仏」の方向へと最大に生かされていく。
よきにつけ題目、悪しきにつけ題目を唱えに唱えきっていく。自己の使命に生きながら、南無妙法蓮華経を自らも唱え、他にもすすめ、修行しきっていった時には、自身の生命の「我」は妙法に染め抜かれて、三世永遠に大宇宙の「仏界」と一体になっていく。
こうなればもう絶対に「安穏」であり、「自在」境涯である。
その途中においては、様々な障害があるのは、やむを得ない。それを乗り越えるからこそ、修行なのである。
いな、むしろ悩みがあった方が題目があがる。いつも健康で、あっという間に大富豪になり、家庭のなかもいうことはない。病気も、何の悩みもない。あんまり早々とそうなってしまっては、凡夫は、とうてい真剣に信心に励めるものではない。
それでは一生成仏もあり得ない。
末法の功徳は「冥益」が表であり、長い間に少しずつ、着実によくなっていく。
福徳の木が磐石に育っていく。
その「成長」と「宿命転換」の事実の姿を示すことによって、周囲の人々にも妙法の偉大な力用を教えてあげることができる。はじめから何もかも完璧であっては、何が信心の功徳か誰にも分からないにちがいない。
更に、三世の生命観と信心の眼からみれば、実は私どもは、自ら願って今の姿に生まれてきたのである。御本仏の久遠以来の本兼属として、妙法を証明し、広宣流布するために、願ってこの時に、この国土に、この姿で生まれてきた。
その誓願を、すっかり忘れてしまって、自分で決めた自分の境涯なのに、文句ばっかり言っている人もいる。
この意味から言えば、どんな悩みも所詮は自分が選んだ悩みです。妙法を実践するための悩みである。このことが本当にハラに入れば、悩みを恐れる必要は全くない。信心で、勇んで乗り越えていけばよい。また信心で乗り越えられない難や悩みなど絶対にない。


勤行しないということは、例えば、優秀な機械を手に入れておきながら、電流を
通さず、使用していないことに等しい。
反対に多忙に流され、あるいは初心の信心をわすれている人は、それだけの結果しか出ず、三年、五年、七年と立った時には大きな成長の差がついてしまう。