出ない福運を出すために御本尊を拝むのである。信心が深くなれば、前世のより、更に久遠からの福運が出て来ることになる。
信心が強ければ必ず護られる。戸田会長は牢の中で妻子のことを心配され、毎日題目を回向しておられたが、出獄してみると皆安穏に生活していた。空襲の度ごとに御本尊を奉持して待避していたのである。
強力な南無妙法蓮華経のリズムに乗りますと、雑念が去る。しかし、そこまでのとらえ方はまだ浅かったと、それでなくって、大生命のリズムがほんとうに南無妙法蓮華経だったから、結果として雑念がなくなるということに最近ようやく気がつきました。
人類学者、エドワード・ホール
「自己というものの境界は、体の外にまで広がっている」
顕罰はすぐさま出なくても、生命深部においては厳しい因果が刻まれている。その冥罰が外に形をとって顕われる時間は、人によってさまざまであろう。生命が罪業で濁っている人はなかなか顕われない。信心の強い人ほど、勤行を怠ったりなどすると、すぐ罰を感ずることを考えあわせてみると、わかりやすい。
また、過去世あるいは今世に積んだ福徳善根の貯金がどれぐらい残っているかも、この点に関係しているのであろう。なお、見逃すことができないのが、魔の関与である。正しい宗教を信じていなくても困らない、と他人に思わせるように、魔がその人に助力するのである。
それは謗法者のなかでも特に指導的人物の上に強く働く。
魔が僧に供養を欠かさせないようにして生活を支えるのは、真実の宗教の行者と思わせたいがゆえである。もちろん、用済みとなれば捨てられるし、生命深部に進行している因果はいかんともしがたい。