戸田先生ご指導

もしも、ラジオと同じ機械が発明されて、大宇宙に溶け込んだおやじや兄弟の生命を見ることができれば、じつに悲鳴をあげているものもあれば、歓喜に満ちているものもいる。

スポンサーリンク

われわれの生命というものは、大宇宙に溶け込むのです。それなら、そのままではいいではないか。しかし、出てくる。それなら、出てきたときに、その生命の運勢がよくなるために、信心したらいいではないか。それは、うそです。
米国のことばが、ここへきている以上は、米国の放送局で放送した、その歌なり、なんなりが、そのリズムにのって、ここへきているでしょう。この大ホールに溶け込んでいるだけではないでしょう。あっても、なくとも、われわれの生活は、無関係なその声が、調子をもっているでしょう。そのように、われわれの死後の生命の形も、ぜんぶ大宇宙に溶け込んでいながら、その生命のもっている状態により、悩んだり、楽しんだりしているのです。それが、こわいのです。
謗法をして死ぬ。真っ黒になって死んだ。死んだ生命が、宇宙に渾然として溶け込んでいながら、死ぬ時の状態を原因として、その大宇宙のなかで、死後の生命自身が生命の生活をやっている。

もしも、ラジオと同じ機械が発明されて、大宇宙に溶け込んだおやじや兄弟の生命を見ることができれば、じつに悲鳴をあげているものもあれば、歓喜に満ちているものもいる。形もなければ、色もなければ、生命自身がもつ苦しさ楽しさのために耐えるのが、死後の生命なので、その空観というものがわからなければ、生命の本質はわからない。だから「南無妙法蓮華経と唱えなさい」というのである。
この唱え死んだものの死後の生命は、まことにおだやかになるものです。また、苦しんで死ぬ者もいる。そこに塔婆供養の原理が成り立つ。溶け込んだ生命に、生命自身が業を感ずる。これが死後の生命なのです。