戸田先生ご指導

巻頭言『利益論』

スポンサーリンク

『道理証文よりも現証にはすぎず』と。 現証とは証拠である。 創価学会が、いかに正しく最高であると説くといえども、これを信ずる民衆に利益が無かったならば、誰が信じようぞ。
初信の功徳というのは、大御本尊様に偉大な力ある事を示された証拠であって、この証拠があればこそ、絶対唯一の宗教であると誇りうるのである。 しかし、初信の人々の信心の至って現われた功徳では、未だ断じ得ない。 その初信の功徳ぐらいで十分と思うのは、大なる誤りである。 三年と、五年と、或いは十年、二十年と、水の如き信心を、型の如く行ずるならば、思いもしなかった、願いもしない、驚く様な功徳が現れるのである。 この功徳は、何の為に現れるかというに、その人が成仏する証拠なのである。
ここに、三箇所の畑があったとする。 第一の畑には、何も植えていない。 第二の畑には菜っ葉の様な物が植えてあり、第三の畑には一粒の種を植えてあるが、その一粒の種は十万円もし、もし、廷々とそびえる木になるならば、一個十万円の木の実が百もなるとすれば、近所のある子供が、第一の畑を荒らしても、大した文句を言う人もあるまい。 第二の畑を荒らしたとするならば、少々の文句は言うが、さほどの叱り方ではあるまいが、第三の畑に、一寸でも踏み込んだり、徒らをしたりすれば、命懸けになって怒り出し、この畑を防ぐに違いない。
大御本尊を信じない者は、第一の畑の様な物であり、大御本尊を頂戴しても、信力薄く、ただ家へ祀ってある程度であったり、また邪法の神札と同居させたり、折伏しなかったりする者は、第二の畑と同じである。 大御本尊様を頂戴し、信力強く仏説の如く行ずる者は、第三の畑である。
さて、誰が、この畑を守る事になるか、誰がこの畑と同じき人を守るか、それは三世に亘る法華守護の諸天善神が、懸命の力を奮って、この人を守護するのである。 絶対に食えない思いや、寒い思いをさせる訳はない。 心豊かに御本尊様を信じ参らせて生活をしなくてはならない。
法華守護の諸天善神がお守りくださるとしても、心田に納まった仏になる種である処の南無妙法蓮華経が芽を出し、木になり、枝を出し、葉を茂らし、花を咲かせ、木の実にならなくては、貧窮の我等衆生は、富める身分とはなり得ないのである。
故に、焦る事なく信心を続け、一日も早く木の実を成らして、永遠の幸福の世界に住む様に心掛けねばならぬ。