たしかに御経文は長い。仕事が多忙で、方便品、自我偈、題目でけのときもあるかもしれない。五座三座の勤行がまったく正しいあり方なのであるが、ともかく御本尊への祈りを途絶えさせずにおこなっていくことを忘れないでいただいたい。つまり水の流れるような持続の信仰でなければならない。ともかくも立派な勤行・唱題をしぬいていった分だけ功徳があることを忘れないでもらいたい。
南無妙法蓮華経、または御経文、御観念文の意味がわからなくてもよいかとの質問がときにある。たしかにむずかしくてわからない場合があるかもしれない。
しかし、こういうことはいえまいか。たとえばラテン語を知っている人に向かって語れば、意想はつうじるものである。
御本尊に祈るということは、日蓮大聖人に祈ることである。しかも日蓮大聖人は、宇宙全体に通達された御当体であられる。ゆえに、たとえくわしい意味はわからなくても、御観念をすれば、その祈りは、そのまま御本尊へ宇宙へとつうじていくのである。
意味がぜんぜんわからなくても、日本人でもわからない人はいます(笑い)、真剣な祈りは、正しい生命のリズムとなって、宇宙のリズムと合致し、その結果として、功徳もわき、生活のうえの力もでてくることは、仏法の原理なのである。