池田先生ご指導

何千万年も修行をしてきた方便品の仏たちよりも、私たちは、御本尊を信じて南無妙法蓮華経とたった一言唱えるのみで、仏になる修行ができてしまうのであります。

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何千万年も修行をしてきた方便品の仏たちよりも、私たちは、御本尊を信じて南無妙法蓮華経とたった一言唱えるのみで、仏になる修行ができてしまうのであります。


表面的に見た場合、あるいは功徳を受けていないように考える人もいるかもしれません。しかし、忘れてはなりません。生命の深層においては、すでに功徳の潮流のうねりが始まっていることを。生命変革、宿命転換の波立ちが起こっていることを。いかなる境遇にあろうとも、ひたすら信心に励む人は、最高の宝を生命のなかに磨き輝かせているのです。
御本尊に祈りきれないというのは、いつか惰性のとりことなり、時にあるいは傲慢の城に住しているとはいえないでしょうか。


仏の生命、衆生の生命といっても、そこに越えがたい隔たりがあるのではありません。疑い、ためらい、あきらめ、あるいは自己を卑屈にみるなどの心を捨て、われは仏の当体なりとの強い自覚に立ったとき、生命を厚く覆っていた迷妄の雲は吹き払われ、胸中には知恵と福運の芽をはぐくむ悟達の太陽が輝きゆくことを確信したいものです。
といっても、迷悟の不同は厳たる事実です。その不同のミゾを瞬間的に埋めていくものこそ、絶えざる行学の実践なのです。われは仏の当体なりと事実のうえに覚知する道は御書の身読のなかにあることを知るべきです。


福運とは自然についてくるものではない。運は、はこぶと書くでしょう。福運とは、福を運ぶということなのです。毎日唱題し、自分で一つ一つ積み重ねるのです。会合に足を運、個人指導に足を運ぶ、その仏様のお使いとしての行動が、福運となっていくのです。
運はころがってくるのではなく運び動かしていくものです。そしてその人の福運は、相に現れてくるのです。その福運によって、人が動き、国土世間も変わるのです。福運は御本尊への感謝を忘れなければ消えるものではありません。そこへ題目をあげるのですから。さらに福運が増していくのです。