平谷邦子 婦人部副本部長(支部婦人部長)
父の心を継ぎ地域に尽くす
呉の名産であるヤスリ職人だった父が、友人から折伏を受けたのは1963年のことです。病弱だった妹が見る見る元気になっていく姿に確信をつかみ、それからは学会一筋。あらゆる広布の活動に、喜び勇んで取り組んでいました。
温厚ながら職人かたぎで、一度、決めたら、とことんやり抜く父が、自宅の隣に広布の会場を建てると決意を口にしたのは77年。半年後には、鉄筋造りの「原本栄光会館」が完成しました。
不景気で全く仕事がないような時期もありましたが、この会館を守るため、父は題目をあげては一本のヤスリに丹精を込め、地道に信頼を広げてきました。
そんな父を見て育った私たち姉妹も学会の庭で育ち、私は関西創価学園、創価大学で学び、創立者・池田先生との数々の思い出を築くことができました。大学卒業後は故郷に帰って塾の講師として働き、学会活動にも全力で取り組みました。
ある夜、女子部の先輩から、自宅の電話に日程等の急な変更を伝える連絡がありました。私は電話を切った後、つい愚痴をこぼしてしまいました。
そんな私を見て父は一言、「どっちを向いて信心しとるんかのう」と言いました。
誰かではない。自分と御本尊、自分と池田先生――これが父から学んだ信心の姿勢でした。
一、女子部で走り抜いた後、創大の先輩で、地元の男子部だった夫と結婚しました。日中友好に貢献したいという夢がかない、夫は中国の工場を管理する仕事に転職。93年には、子どもを連れて香港に移り住みました。
多くの民族が行き交う国際都市・香港で、多彩な同志と共に、世界広布の指揮を執られる池田先生を何度もお迎えできたことは、最高の思い出です。3人の子どもたちも皆、香港創価幼稚園の卒園生になりました。
2005年、支部婦人部長として広布の最前線を走り、夫も本部長の任命を頂いた矢先、試練が待ち受けていました。夫の勤務先の工場で大きな問題が発生し、役員だった夫は、帰国を命じられかねない状況になったのです。
必死で題目をあげました。初めは苦境から脱したい一心でしたが、唱題を続けるうち、香港の同志を全魂で励まされる先生の姿が心に浮かびました。
香港広布のために絶対に負けるわけにはいかない。夫婦の祈りがこう変わった時、不可能と思っていた工場の再編や合理化が進み、夫は苦境を脱することができたのです(拍手)。
香港で暮らして20年。2013年に、再び転機が訪れました。父が入院することになったのです。末期のがんでした。
香港から父を見舞う前日、父の病室には、母と3人の妹が集まっていました。そこで父と一緒に「開目抄」の一節を暗唱したそうです。
「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(御書234ページ)――父は、小さいながらも、しっかりとした声でそらんじ、数時間後、霊山へと旅立ちました。香港から駆け付けて父の顔を見た時、信心を貫く人生の素晴らしさを父の姿から教えてもらい、不思議と悲しみより感謝が込み上げました。
さらに葬儀に会葬してくださる方々を見て、父がどれほど地域のために尽くしてきたのかを改めて知り、地域広布への情熱を受け継ぎたいとの思いが募りました。
夫の仕事も一区切りがつき、一人で個人会館を守っている母のためにも、夫婦で帰国を決断。2年前に故郷の呉に帰ってきました。
一、地元に戻ったからには、地域に根差した仕事がしたいと、夫婦で社会福祉士資格の取得に挑戦。共に合格することができ、現在、夫は近隣の社会福祉協議会に勤務。私も、小・中学校のスクールソーシャルワーカーとして働いています。
組織では1年前に、地元・川尻支部の支部婦人部長の任命を頂きました。旧姓の原本で訪問・激励に回ると、何年も活動に出てこられなかった先輩がドアを開けてくれ、“お父さんにはお世話になりました”と思い出を語ってくださいます。
7月の豪雨の際は、支部内でも約1カ月間、断水が続きましたが、こんな時こそ信仰の真価を示そうと、各部が団結して地域の方々へ励ましを送ってきました。
皆さんの大奮闘で、わが支部もブロック2に迫る折伏を達成して、本日を迎えることができました(拍手)。
香港で育ったわが家の子どもたちも皆、創価学園・創価大学で学び、それぞれの使命の場所で頑張っています。
3人の妹の子どもたちも全員が広布後継の人材に育ち、わが家と合わせて9人が、創価の学びやで成長させていただいています。
父が言っていた通り、これからも家族全員が真っすぐに池田先生を向いて、広布のために前進していく決意です(拍手)。