信心の実証を社会で示す
一、私は1970年、小学3年生の時に、母と共に入会しました。
当時のわが家は、父の事業の失敗によって貧困を極め、もともと病弱だった母は心身共に疲弊し切っていました。その母が信心で見る見る元気になる姿に、私たち4人きょうだいは信心の偉大さを学びました。
しかし、末っ子の私は成長するにつれ、信心から遠ざかりました。母にとっては、勉強もせず、音楽に熱をあげる私が心配の種でした。
85年7月、突然、母との永遠の別れがやってきました。
亡くなる数日前、母は電話でこう言いました。「勉強が苦手なお前が一番、心配だ。しっかり信心するんだよ」と。
母の遺言となったこの言葉で、再び学会活動に取り組むように。広布のために走る中で、目標だった就職も勝ち取ることができました。
鉄道部品関連の小さな企業でしたが仕事にやりがいを感じ、同僚だった妻と出会い、折伏して結婚することもできました。
一、しかし2000年、会社の業績が急速に悪化。社長をはじめ全ての役員が退陣し、営業部長だった私が社長を任されることになりました。
人員削減・経営合理化など、課題が山積し、毎日が苦闘の連続でした。重圧に押しつぶされ、日に日に表情が暗くなる私を見て、妻が言いました。
「社長という肩書に振り回されないで、今こそ信心根本に、具体的な目標に向かって実証を示す時よ」と。
元同僚の妻の一言で原点に返り、その後は何があっても信心根本に、仕事と学会活動に取り組みました。
忘れもしない03年3月、訪日して参加した本部幹部会の席上、池田先生は四条金吾の生き方を通してスピーチされました。
「偉大なる妙法を持った私たちに、乗り越えられない困難など断じてない」と。
この先生のご指導を胸に、組織では圏長として一歩も引かず挑み抜く中、奇跡が起こりました。会社の誰もが不可能だと思っていた列車自動防護装置の新開発に成功し、社長就任3年で売り上げが3倍となったのです(拍手)。
さらに06年には長年の鉄道業界への貢献がたたえられ、「大統領産業褒章」を受章。祈ってきた以上の信心の実証を社会に示すことができたのです(拍手)。
また同年、亡き母への親孝行のつもりで大学編入試験に挑みました。勉強が苦手だった私が、大学・大学院を経て、15年には工学博士号を取得することができました。
一、壮年部員としても、この06年は大きな転機となりました。それは「太極吹打隊」の結成です。
私は初代団長として、楽団を一流の文化グループにしようと意気込んでいました。しかし、結成当初は演奏経験者が一人もおらず、集まった80人も、大半は壮年部で全く活動していないメンバーでした。
そんな一人一人への励ましに徹し、毎回の練習前には勤行・唱題を実践。小説『新・人間革命』を研さんするうちに、楽団としての団結が生まれていきました。
猛練習の結果、12年には韓国の伝統楽器の競技大会で第2位を獲得。15年には韓国の外交部や日本大使館が後援し、ソウルで開かれた韓日友好のイベントに、日本の音楽隊・創価ルネサンスバンガードと共に出演。音楽を通し、両国の絆をさらに強固にすることもできました(拍手)。
一、組織では、13年に全国壮年部長の任命を受けました。就任以来、先生のご指導通り、一人と会うことを最優先し、毎月30人以上の訪問・激励を実践しています。
また、池田先生の韓国SGI本部初訪問から20周年の本年は、「次代を担う青年の育成こそ、“黄金柱”の壮年部の第一の使命」と定め、青年部の育成にも全力で取り組んでいます。
壮年・男子部の「ブロック5勇士」に全支部が挑戦する中、3月11日の世界青年部総会には7万人の青年が参加。下半期は、2万人の青年部員の教学部任用試験受験と、全ブロックで2人の青年部員の拡大へ前進していきます。
まずは広宣流布大誓堂完成5周年を目指し、どこまでも信心根本に、どこまでも一人を大切に、韓国壮年部は一切に勝利していきます(拍手)。