信心だけは、好きであろうが、嫌いであろうが、どうしても必要なものです。
ご飯を食べ、水を飲まなければ生きていけないように、正しい信心がなければ、絶対に福運ある生涯は送れない。活力ある、楽しい人生を送ることはできません。
信心は、究極においては神経質であってはいけません。
「罰があろうが功徳があろうが、御本尊様は絶対だ。どんな事態があっても、一切が変毒為薬されるんだ。何かの意味があって、この現証があるんだ」こう確信し切って、題目をあげて、あげ抜いていく。
学会活動に一直線に進んでいく。この人が、本当の信仰者です。
「観念論であってはなりません。仏法は実証主義です。現証主義です」
「種(たね)を蒔けば、必ず花が咲く。10年、20年と信心に励んだ人が、「これほどまでに幸せになった」「ありがたい、想像もしなかった幸福生活である」となる。これが所願満足です。