小説「新・人間革命」

〈小説「新・人間革命」〉 誓願 六十一 2018年6月6日

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 法悟空 内田健一郎 画 (6391)

 アメリカでSGIメンバーと交流してきた作家の牛島秀彦・東海女子大学教授(当時)は、文化の本質に立ち返り、訴えている。
 「文化と宗教は不即不離の関係にあり、両者は同義ではない。文化・芸術は宗教宗派を超えて広く社会に根差し、歴史のなかで他の文化を吸収・淘汰・融合しながら、人間の生活様式を形成している。したがって、ベートーヴェンの『第九』の合唱部分を異教徒(私は宗教の枠を超えた人間の賛歌ととらえている)として断罪、排斥することは、世界の文化、ひいては人間の生活様式を否定するという論理になってしまう。
 自らはコップの中に閉じこもり、ドグマを振り回すことはたやすい。だが、それでは日蓮大聖人の遺命とされる世界への布教は決してなされないのみか、自らがそれを阻んでいることを認識する必要がある」(注1)
 宗教が教条主義に陥り、独善的な物差しで、文化や芸術を裁断するならば、それは、人間のための宗教ではなく、宗教のための宗教である。
 “今こそ、人間に還れ”――新しき時代のルネサンスの必要性を、同志は痛感した。
 また、学会の首脳たちは、宗門僧の振る舞いにも、心を痛めてきた。各地の会員からは、傍若無人な言動や、遊興にふけり、華美な生活を追い求める風潮に、困惑、憂慮する声が、数多く寄せられていた。学会としても、そのことを宗門側に伝えた。このままでは、将来、宗内は荒廃し、収拾のつかない事態になりかねないことを危惧したのである。
 大聖人は、折伏もせず、「徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり」(御書一三八六ページ)と仰せである。
 広宣流布への志を失い、衣の権威を振りかざす宗門僧の姿は、学会の草創期から見られた。ゆえに第二代会長・戸田城聖は、「名誉と位置にあこがれ、財力に阿諛するの徒弟が、信者に空威張することなきよう」(注2)等と、たびたび宗門僧に対して、信心の赤誠をもって厳しく諫めてきたのである。

 小説『新・人間革命』の引用文献
 注1 「聖教新聞」1991年2月10日付
 注2 「日蓮正宗の御僧侶に望む」(『戸田城聖全集1』所収)聖教新聞社