池田先生ご指導

戸田先生は、御本尊を拝んで大歓喜がわかなくては真の信仰とはいえない、とまで言われました。歓喜があれば功徳の大輪は、ますます大きくなる。

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模範のブロックをつくるにはどうしたらよいか、まず、全会員が、しっかり勤行できるようにすることです。柔道にも、剣道にも、基本がありますが、幸せになるための信心の基本は勤行にあります。日々、真剣に勤行・唱題を重ねた人と、いい加減な人とでは、表面は同じように見えても、三年、五年、七年とたっていったときには、歴然たる開きが出てきます。宿業の転換といっても、人間革命といっても、そのいっさいの源泉は勤行・唱題にほかなりません。ですから、日蓮大聖人は「深く新を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを是をみがくとは云うなり」と仰せになっているのです。


また、勤行の姿勢が、その人の生き方に表れます。弱々しい勤行の人は、生命力も乏しく、どうしても、弱々しい生き方になっていくし、義務的な勤行であれば、信心の歓喜はなかなか得られません。お互いに、白馬が天空を駆けるような、リズム感あふれる、すがすがしい勤行をしていきましょう。そして、真剣な祈りをこめ、大宇宙をも動かしゆくような、力強い、最高の勤行を、日々、目指していこうではありませんか。


しかし、こればかりはそれ、歓喜、歓喜などと言っているだけでは、歓喜はでてこない。勤行で足がしびれて、まだ終わらないか、ああ、歓喜、歓喜、それでは歓喜になりません、とも語られていた。勇んでなすのが信心です。真剣に戦っていればこそ心が弾む。仏法に悲壮感はありません。正義は楽しです。


御本尊に唱題することが楽しい、友に仏法を語ることが楽しいとなればいい。勤行が苦しくて苦しくてというのではダメです。御本尊が慕わしくならなければ信心はウソです。


仮にどうしても勤行できないときがあったとしても、それをいたずらに気にかける必要もない。信心の心があれば、それだけで福運は消えない。


前進している信心、生き生きとした勤行の実践があれば、生命は躍動し、宇宙のリズムと見事に調和してきます。生命力が弱まったり、信心に行き詰まっているときは、勤行ができなかったり、勤行していても、なにかおかしいなと感じさせるものがあります。それはまた自分自身がいちばんよくわかるものです。いわば、これ以上の健康管理法はないといってもよい。


「勤行は御本尊と感応しゆく荘厳な儀式である。それにふさわしい朗々たる響きの声であっていただきたい。悪声は地声だから仕方がないという人もあるかおしれないが、信心の境涯の変化は、勤行の声に最も端的に表れるのも事実である」そういう意味においても、勤行は非常に大切な信心の基本です。御本尊と境智冥合していく唯一の実践法ともいえます。


「こんなに幸せになっていいのか!」と思えるほど幸せになる、その原動力が勤行です。それが信心の功徳です。しかも実践すればするほど。どんどん「自分が幸福になる」「自分の祈りが叶う」「自分が守られる」のです。


幹部として心得るべきことがあります。信心といっても、勤行と折伏の実践がないところに信心はありません。口は調法です。いかに教学に精通して、教義を重んじているような顔をしていても、自分が受持した御本尊さえ念頭になく、行の実践を欠いては、これは日蓮大聖人の仏法ではない。そうした幹部は会員を惑わせるだけです。