【御書本文】
大王の一日の御くごなりと臣下申せしかば大王五升の米をとり出だして一切の飢えたるものに或は一りう二りう或は三りう四りうなんどあまねくあたへさせ給いてのち天に向わせ給いて朕は一切衆生のけかちの苦にかはりてうえじに候ぞとこえをあげてよばはらせ給いしかば天きこしめして甘呂の雨を須臾に下し給いき(上野殿御返事p1574 n1918)
【通解】
「大王の一日分のお食事です」と臣下が申し上げたところ、大王は五升の米を取り出して、一切の飢えた者に、或いは一糠二粒、或いは三粒四粒などというようにあまねくあたえられた。
その後、天に向かわれて「我は一切衆生の飢えの苦しみに代わって飢え死にするであろうぞ」と声をあげて叫ばれたところ、天はこれを聞かれて甘露の雨を即座に降らされた。
【先生の指導から】
熱原の法難にさいして果敢に戦いぬいた時光に、幕府は不当に多くの使役を課して苦しめた。本抄では、そうした苦境をも顧みず、時光が大聖人のもとへ御供養を届けられたことに対して、尊い信心の真心をたたえられたのである。と同時に、この金色王の故事をとおし、徹底して民衆に尽くす指導者のあり方を示されているとも拝することができよう。
“あと一日、自分が食べるぶんしかない。どうするか”─そうした土壇場になった時に、真の指導者か否かが問われる。その人の人間としての偉さが、わかってしまうものである。
利害と名聞と保身に汲々とし、いざという時にかんたんにはげてしまう”メッキの人生”なのか。どこまでも民衆のために、との”真金の一念”で生き、生々世々にわたって福徳を増しゆく人生なのか。
私どもの人生の目的は、飾りにすぎない社会の栄誉や勲章を求めることではない。徹して人々のために生き、行動してこそ、わが胸中に「金色の生命」を、「魂の勲章」を輝がせていくことができるのである。