【御書本文】
一代の肝心は法華経法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ(崇峻天皇御書p1174)
【通解】
釈迦一代の説法の肝心は法華経である。そして、法華経の修行という点で、その肝心をいえば、それは不軽品である。不軽菩薩が人ごとに敬ったということは、どういうことをいうのであろうか。教主釈尊の出世の本懐は、人として振る舞う道を説くことであった。穴賢穴賢。振舞いにおいて、賢いものを人といい、愚かなものを畜生というのである。
【先生の指導から】
家庭をつつがなく守りぬいていくためにも、職場において自らの力量をぞんぶんに発揮していくためにも、まず自在の活躍をしていくための基礎となる身体を、強靱に鍛えぬき、生命力を満々とたたえていくことが肝要である。
そこにこそ”人間それ自体”を一切の原点にすえ、仏法の極理、真髄を昇華させゆく、もっとも基本的なあり方がある。
法華経方便品には「是の法は法位に住して、世間の相常住なり」とある。これは「信心即生活」「仏法即社会」の原理を示したものである。
内面に脈打つ清冽な信仰の奔流を、社会という現象次元にいかに発現させていくかが、仏教という人間宗教の本来の使命であり、目的でもある。
そのためにも「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」との御文どおり、偏狭を排しつつ、油断を戒め合いながら、あくまでも賢明にして自在闊達の人生道を悠々と歩みぬいていってほしい。
ゆえに、信仰しているからなんとかなるにちがいないと考えるのは、慢心であり、正信こそ、最高の良識であることを銘記されたい。