事実と真実――これほど判別のむずかしいものもない。
人間の目に映った「事実」が、
必ずしも「真実」を表しているとは限らないからである。
「事実」は、ある意味で、だれにでも見える。
しかし「真実」は、それを見極める目を磨かなくては、
決して見抜くことはできない。
「事実」といっても、一断面のみ見れば、
「真実」とまったく違った様相を呈する場合もある。
また、同じ「事実」を前にしても、
そのとらえ方、見方は、人によって異なる。
歪(ゆが)んだ鏡には、すべてが歪んで映る。
歪んだ心の人には、一切が歪んで見えてしまう。
物事を見極める眼力――それは、みずからの『 境 涯 』で決まる。
「利己主義」「保身」「傲慢」「偽り」の人に、
偉人の真実の生き方は見えない。
「謀略」の目には、「誠実」も「真心」も「無私の心」も映らない。
まして汚れなき信心の「心」、広宣流布への深き、深き一念を、
理解できるはずもない。
ゆえに、いかなる戦いも、断じて勝つことである。
他人の境涯の低さを嘆いていても仕方がない。
まずみずからが、勝って、「正義」を明かすことである。
御書に「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(御書237ページ)と。
また戸田先生も、この御聖訓を拝して、
「大聖人にほめらるるは、一生の名誉なり」と言われていた。
そう肚を決めれば、何ものも恐れることはない。
――「真実」を知るためには、多面的に「事実」を多く知ることも、
その一つの前提となろう。
なかでも、その人物が、
「最悪の事態のなかで、何をなしたか」を見極めることが肝要であろう。
「よからんは不思議わるからんは一定とをもへ」(御書1190ページ)
――よくなることは不思議であり、悪くなって当然であると思いなさい――と大聖人は仰せである。
人物の真価は、窮地にあってこそ、明らかとなる。