池田先生ご指導

日蓮大聖人の仏法においては「成は開く義なり」で、自らの内なる仏界の生命を開き顕わすという意味になったのです。誰であれ、南無妙法蓮華経と唱えれば、この身このままで、仏界の生命を開き、宇宙生命の力用が体のすみずみまでみなぎるのです。

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すなわち、南無妙法蓮華経はわずか七字で、あまりにも簡潔すぎて、せばきやうなれども、三世十方の諸仏を導いた妙法であり、一切衆生皆成仏道の根源の一法であるがゆえに、はなはだふかしと仰せなのです。


日蓮大聖人の因果倶時の仏法は、それまでの仏法の考え方を百八十度転換した革命的な仏法といえます。それまで、はるかかなたに、衆生(九界)の生命とは無関係なものとして仰ぎ見ていた仏界の果が、自分の生命のなかに、実在することになったからです。
「成仏」とは「仏に成る」ことであると考えられていたのが、日蓮大聖人の仏法においては「成は開く義なり」で、自らの内なる仏界の生命を開き顕わすという意味になったのです。誰であれ、南無妙法蓮華経と唱えれば、この身このままで、仏界の生命を開き、宇宙生命の力用が体のすみずみまでみなぎるのです。
それまでの仏法においては、はるかかなたの目標であった仏界の生命の体現、すなわち悟りの実証が、大聖人の仏法にあっては、われわれの日々の勤行・唱題により、因果倶時で、そくざに獲得されるのです。