結局、私たちが唱題して得る南無妙法蓮華経の智慧を、いかに実際の生活のうえに、さらには民衆救済の諸活動のうえに主体的に活かし働かせていくかという一点につきる。
もしも、この智慧として発揮するという面を忘れ、また、その努力を怠るならば、せっかく御本尊への信によって智慧の宝を買いながら、その宝を使わずに放置しておくに等しい愚かな行為になってしまう。
しかし、もっとも恐ろしいことは、智慧を発揮せずにいることが信心自体も弱める結果になるということです。
信と解(智慧)の関係は、信が深まれば解もはつらつたるものとなると同時に、智慧をフルに活用する能動的な姿勢があってこそ、信も深まるという相関的なものであるという点に、とくに心をとどめてもらいたい。このダイナミックな関係を持続しようとする私たちの真剣な戦いのなかに、生活即信心の実体があるのです。