この末法に法華経を保つことは、全宇宙の魔軍に対して宣戦布告するのと同じです。
法華経の行者には、魔軍が集中攻撃を加えてきます。
したがって諸難(魔、宿業、罰)が競い起こることは避けられないのです。
もちろん、それだけだったら信心しても損するだけということになります。
それでも私たちが信心するのは、難を補って余りある大功徳を受けられるからです。
すなわち正しい信心とは「諸難」と「功徳」の両方が顕れるものなのです。
難がことごとく功徳に転じると言ってもいいでしょう。
なお、罰が出るのは間違った信心だからと考える人もいますが、これは「罰が出る宿業」が顕れたものなので、心配は無用です。
罰と宿業は本質的に同じです。宿業の軽いものが罰なのです。
さらに言うなら、宿業の根本も、成仏を妨げようとする久遠元初以来の魔の働きです。
したがって諸難はすべて魔なのです。
問題は、難ばかり強くて功徳が実感できないといったケースです。
功徳が無ければ、一生懸命題目を唱えても、かえって不信になります。
功徳のない信心など、誰もやってくれません。つまり功徳を受けないと折伏も決まりません。
難があるなら、必ず功徳もあります。おおいに功徳を受けることが、あなたの使命なのです。