池田先生ご指導

仏というのは内なる第六天の魔王を、南無妙法蓮華経という光明で克服している姿といえるかもしれない。 自分の持つ悪魔性に勝利している姿だ。

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御書の一節が、もっと実生活のなかに密着するように、徹底的にやろう。おたがいに会えばすぐ御書の一節が口をつくというように。要は、教学が生活に必要なものというようにしたいものである。たとえば、なにかコトにぶつかったとき、ああ、これは「行解既に勤めぬれば三障四魔」だ。これは「転重軽受」だ、というように御書が、すぐ思い出されるようになればよい。それだけで自分を守ることができる場合もある。
また過去に何回も読んだ御書で、時により場所に応じて、さらに機根に即して、そのつど受け止める深さが違う。なんの感動もなく、ただスーッと読んでしまうのは空転である。そうなったら負けだ。


仏といえども第六天の魔王の生命を持っている。日蓮仏法の御本尊にも、この、魔王がきちんと記されてある。
その意味では、仏というのは内なる第六天の魔王を、南無妙法蓮華経という光明で克服している姿といえるかもしれない。
自分の持つ悪魔性に勝利している姿だ。