執筆は“師への誓い”の実行
池田先生はつづった。「私でなければわからない真実の学会の歴史がある」と。小説『新・人間革命』には、世界広布の“精神の正史”が描かれている。『人間革命』(1509回)と合わせ、通算7978回となる連載回数は、未来に輝く壮挙である。ここでは、半世紀にわたるペンの闘争の軌跡を紹介する。
「私のライフワークである、小説『人間革命』『新・人間革命』の執筆も、わが胸奥で、戸田先生にお誓いした“師弟の約束”の実行にほかなりません」
池田先生にとって、恩師・戸田城聖先生の伝記小説を書き残すことは、青春時代からの誓いであった。その思いは、次第に強くなっていく。
1951年(昭和26年)の春、戸田先生が、自ら書いた小説『人間革命』の原稿を見せてくれた時――。
54年(同29年)夏、恩師の故郷である北海道の厚田村(当時)に同行した時――。
そして、執筆の決意が確固不動のものとなったのは、57年(同32年)8月、長野・軽井沢での師弟の語らいであった。
恩師との邂逅から10年。この時、「先生のご精神を誤たず後世に伝えるのは、私の使命であり、先生の期待であることを知った」のである。
翌58年(同33年)4月2日、戸田先生は逝去。その後、池田先生は日記に記した。「戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて」
64年(同39年)4月、恩師の七回忌法要の席上、小説『人間革命』の執筆を発表した。
64年(同39年)12月2日、池田先生は小説『人間革命』の執筆を沖縄の地で開始した。
その理由は、沖縄が最も戦争の辛酸をなめた地であるとともに、人類の宿命転換も一人の人間革命から始まる、ということが小説のテーマだからである。
本紙で連載が始まった65年(同40年)1月1日付の「黎明一」には、「戦争ほど、残酷なものはない」との冒頭の一節に続き、戸田先生が出獄する場面が描かれた。
戸田先生自身が「妙悟空」のペンネームでつづった『人間革命』は、投獄された主人公の巌九十翁が、「地涌の菩薩」の使命を自覚し、広宣流布に生涯を捧げる決意を固める場面で終わっている。
池田先生がしたためた書き出しには、戸田先生の『人間革命』の「続編」という意義が表現されていた。
小説の執筆は、激務の合間を縫っての闘争だった。海外訪問や地方指導の折にも、小説の構想を練り、原稿用紙に向かった。
70年(同45年)には、言論問題が起こった。その嵐の中、先生は一人矢面に立ち、会員を守りに守った。
この頃、体調を崩し、ペンを握ることができない日もあった。それでも、原稿を口述し、テープに吹き込みながら執筆にあたった。そこには、一言また一言と声を絞り出す様子が記録されている。
同志に励ましを送るため、最悪な体調の中でも、『人間革命』の執筆闘争は続いた。
香峯子夫人も連載を支えた。第9巻「発端」「小樽問答」の章には、夫人の字の原稿が多く残されている。欄外に「少々身体が疲れているので女房に口述筆記をしてもらいました」と先生が記した原稿もある。
口述筆記で夫人が使用した机は、「香峯子机」と呼ばれた。
宗門の悪侶と退転・反逆者らが結託した第1次宗門事件の中、79年(同54年)4月、先生は第3代会長を辞任。師弟の絆が分断されようとしていた。
同年5月3日、『人間革命』第7巻の原稿のつづりに、先生は揮毫した。
「師あり 弟子あり
広布あり」
謀略を企てた者たちは、先生の行動を制限しようとした。繰り返される悪口雑言に、同志は耐えに耐えた。
“このままでは、同志がかわいそうだ。『人間革命』の連載を開始しよう。そのための非難は、私が一身に受ければよい”
翌80年(同55年)7月、先生は2年間にわたって休載していた『人間革命』第11巻の執筆を再開した。題名は「転機」。それは、全同志を奮い立たせ、学会の反転攻勢の力となった。
90年(平成2年)には、第2次宗門事件が勃発。『人間革命』は、世界への平和旅や海外の識者との語らいなどで長期間の休載が続いていた。先生は連載を再開し、正義の言論によって、宗門の魔性を真っ向から打ち破っていった。
『人間革命』の最終回の掲載は、93年(同5年)2月11日。恩師の生誕93周年の日である。
「わが恩師 戸田城聖先生に捧ぐ 弟子 池田大作」と、先生は記した。
小説『人間革命』は、山本伸一が第3代会長に就任した場面で終わった。
だが、恩師亡き後の仏法の世界への広がりを記すことが、恩師の本当の偉大さの証明になり、広布の永遠の方程式を示すことになる。その思いから、先生は続編として、『新・人間革命』の執筆を開始した。
この時、先生はすでに65歳。それは「限りある命の時間との、壮絶な闘争」との決心で臨む、新たな言論闘争の幕開けでもあった。
起稿したのは、恩師の伝記小説の執筆を決意した長野・軽井沢。『人間革命』12巻完結から、わずか半年後の93年8月6日である。広島原爆忌という日に象徴される通り、『新・人間革命』のテーマの一つが「平和」だ。
「戦争ほど、残酷なものはない」との『人間革命』の冒頭に対して、『新・人間革命』は、「平和ほど、尊きものはない」で始まっている。続いて、小説は山本伸一の海外初訪問のシーンを描いていく。「平和」と同時に「世界」もまた、『新・人間革命』を貫く主題であった。
『新・人間革命』の執筆を続けながら、本紙で、さまざまなエッセーの筆を執った。「随筆 新・人間革命」に始まる一連の随筆だけでも、この20年間で掲載は730回を超える。
寸暇を惜しんで執筆が続けられた『新・人間革命』は今月8日、完結となった。
最後の章を脱稿したのは、執筆開始25周年の8月6日。その場所は、長野研修道場である。
先生は万感の思いを書き留めた。
「創価の先師・牧口常三郎先生、恩師・戸田城聖先生、そして、尊き仏使にして『宝友』たる全世界のわが同志に捧ぐ 池田大作」
池田先生のペンの闘争は、それ自体が永遠に後世に語り継がれる「未来までの・ものがたり」(御書1086ページ)にほかならない。
創価の“精神の正史”である『新・人間革命』に学びつつ、自らの人間革命に挑戦する――その弟子の行動が、師匠の偉大さを、仏法の正義を、幸福と平和の大道を、後世へと伝えゆくことを心に刻みたい。
池田先生が『人間革命』の執筆に使用した机(左奥)。「香峯子机」(右手前)と共に、沖縄国際平和会館に保管されている
小説『人間革命』第9巻の原稿。欄外には「少々身体が疲れているので女房に口述筆記をしてもらいました」との先生の文字が記されている