個人指導に取り組む際にあたって、つねに銘記したい点は、あくまでも私達は信心指導に徹しなければならないということであります。個人指導とは、信心を激励し、発心を促す以外のなにものでもありません。肝心かなめの信心指導をないがしろにして、生活上の策や方法、判断を指示するようなことがあったとすれば、それは信心指導ではありません。たとえば、病気になって手術を受けようかどうかと迷って、指導を求めてくる人がいます。この場合、手術を受けるべきか否かの判断はあくまで医師と相談して本人がするべきものであって、私たちが指示すべき問題ではないでしょう。
その他の生活上の問題にしても、自分でさんざん悩み、解決の方法がないから指導を受けにくるわけです。それに対して方法論を示したところで、本人の本当のためにはなりません。
御書には、病気や貧乏等をどう解決すべきかといった指針はありません。人生におけるさまざな苦悩の根本原因は、自分自身の宿業にあることに気づかせ、宿業を転換しゆく信心を奮い起こすことを教えてくださっているのです。
たとえば、わが子が病気で悩んでいる親がいたとします。親は子供の病気さえ治れば、とばかり願うが、むしろ病気の子をかかえて悩む親自身の宿業に気づくことが大事なのです。
戸田前会長もよく「親自身に子供で苦労する宿業があるから、子供が病気になったのである。ゆえに親の宿業を転換するしかない」との趣旨を指導されていました。わが子に限らず妻や夫の場合もありましょう。兄弟の場合もあるでしょう。
また、このように病人をかかえて悩む人自身の宿命転換の契機としていくことが大切であると同時に、病気で苦しんでいる本人も、信心に励んでいくことが大切であると同時に、病気で苦しんでいる本人も、信心に励んでいく転機としていくことが大事になってきます。
大聖人は「このやまひは仏の御はからひか・病によりて道心はをこり候なり」と御教示なされています。
病気に苦しんで初めて、自身の謗法罪障に、悪しき宿業に気づくのです。
この病気は、信心に目覚めさせるための御本尊の御はからいなのだ」と。そう発心していくならば、大きく境涯が開けるのです。