〈友のもとへ 池田先生の激励行〉

〈友のもとへ 池田先生の激励行〉5 16日間の北海道訪問 2018年6月18日 草の根を分けてでも讃えたい

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草の根を分けてでも讃えたい
 
北海道研修道場で行われた勤行会の開会前、外で参加者を出迎える池田先生。握手を交わし、記念のカメラにも納まった(1978年6月14日)

 一人を励ます。
 青年を育てる。
 未来をつくる。
 池田先生の行動は一貫して変わらない。
 40年前の6月もそうだった。1978年(昭和53年)6月8日、先生は北海道を訪れた。44回目の訪問は、16日間で道内を東西に往復する強行スケジュールだった。
 小説『新・人間革命』第27巻「求道」の章に、当時の模様が詳しく描かれている。先生はつづっている。
 「この訪問では、これまでに足を運んだことのない地域も訪れ、陰で学会を支えてきた功労の同志を、草の根を分けるようにして探し、讃え励まそうと、心に決めていた」
 激励で始まり、激励で終わる。51回を数える北海道訪問の中で、最長となった激励行は、寸暇を惜しんでの励ましの連続だった。
 ◆◇◆ 
 8日午後、北海道入りした先生は幹部会に出席。9日、10日は札幌、厚田での諸行事に臨み、11日には、厚田で行われた第6回北海道青年部総会で励ましを送った。
 その日の夜、先生は飯田俊雄さん(圏副本部長)・チヱさん(婦人部副本部長)夫妻が営む喫茶店「厚田川」に足を運んだ。
 飯田さん夫妻は、62年(同37年)に入会。「恩師の故郷」との誇りを胸に、対話に駆けた。本紙の輸送体制が整っていなかった時期には、運搬役を買って出るなど、厚田広布を支えてきた。
 77年(同52年)10月2日、厚田を訪れていた先生は、夫妻の功労を讃えようと、喫茶店へ。和やかに語らい、色紙に「厚田川 香りも高き 師の都」としたため、夫妻に贈った。
 2度目の「厚田川」訪問となったこの日、先生は一般紙の記者と懇談した。
 一段落すると、先生はチヱさんに、喫茶店の経営状況を尋ねた。チヱさんが「順調です。すべて信心のおかげです」と答えると、「すごいね」と喜んだ。
 この時、先生は一般紙の記者に率直な真情を語っている。
 「本当はもっと、こういう方々の家を一軒一軒と回って励まし、苦労を讃えたいのです」
 師との原点を胸に、夫妻はさらに広布にまい進した。俊雄さんが70歳まで経営していた「厚田川」は今、広布の会場に。地域の同志が喜々として集う。
 3年前、俊雄さんに大腸がんが見つかった。だが、病魔に揺らぐことはなかった。朗々と題目を唱え、手術も無事に成功。経過観察を続けながら、86歳の今も対話に歩く。
 「『厚田の魂』を、『厚田の誇り』を、若い人たちに伝えていく。それが私の使命です」と俊雄さん。夫の隣で、チヱさんがうれしそうに、ほほ笑んだ。
 ◆◇◆ 
 北海道訪問6日目となる78年6月13日夕刻、先生は飛行機で釧路へ。11年ぶりの道東指導である。別海町の北海道研修道場へ向かう道中、先生は石川清助さん(故人)宅を訪れた。
 66年(同41年)9月、石川さんは脳出血で倒れた。右半身が麻痺し、ろれつも回らなくなった。
 だが、北釧路支部(当時)の支部長だった石川さんは、広布の戦列に戻ろうとリハビリに励み、歩けるまでに回復。翌67年(同42年)8月、先生が出席して釧路会館(当時)で開催された幹部会に、妻・保子さん(故人)と駆け付けた。
 先生は「必ず治ります。次に私が釧路へ来る時には、元気な姿を見せてください。断固、長生きしてください」と渾身の励ましを送った。
 それから11年。師との約束を果たし、宿命を乗り越えた石川さん夫妻の姿に、先生は「幸せな皆さん方の姿を拝見して、私もまた一つの思い出ができました」と。さらに、石川さん一家と記念のカメラに納まった。
 この時、先生は、石川さんの次男・宏さん(副区長)が立ち上げた贈答品の店にも寄り、従業員に温かく声を掛けている。
 「父のことだけでなく、店のことまで気を配ってくださって……。何としても、先生の真心に応えていこうと固く誓いました」と宏さん。
 仕事を通して、北海道を元気にしたいと、メロンやカニなど、北海道物産を中心に取り扱ってきた。
 また、優良な中小企業から手広く商品を仕入れ、詰め合わせの種類が多彩なギフトをスーパーなどに卸すことで、北海道の良い品の流通を促進してきた。
 こうした北海道の産業発展への貢献が評価され、2008年(平成20年)、宏さんは「北海道産業貢献賞」を受賞した。
 妻の和子さん(区副婦人部長)が59歳の時、乳がんを患った。その2カ月後には、宏さんも脊柱管狭窄症を発症。しかし、夫婦共に信心で病を克服した。
 宏さんは、毎朝午前4時に起床する。午前6時まで広布の拡大、会社の発展を祈り、一日を出発。その生活を21年間続けている。
 ◆◇◆ 
 翌14日、研修道場で役員を務めていた菅原一司さん(故人)が先生にあいさつすると、“君のことはよく知ってるよ! 別海広布の開拓者だもの”と。
 思いがけない一言に、驚きを隠せない菅原さん。当時、別海町で男子部本部長として奮闘していた。
 菅原さんが信心を始めた時、別海町には男子部員が4人しかいなかった。
 町の面積は東京23区の2倍に及び、冬は氷点下30度を記録することもある。
 酪農を営む菅原さんは、牛舎清掃や餌やり、搾乳などを手際よく終えると、学会活動へ。部員宅は点在し、片道100キロの家もあり、吹雪で帰れないこともあった。帰宅がどんなに遅くても、午前4時には起きて牛の世話に当たった。
 そうした菅原さんの懸命の励ましで奮起した多くの友がいる。その一人が激励に通い続けたメンバーが、1970年(昭和45年)12月の男子部総会で活動報告に立った。
 活動報告した友を“陰の陰”から励ました人がいるに違いない――先生が尋ねると、菅原さんの存在が浮かび上がった。その敢闘を讃え、先生は激励の一文を菅原さんに贈っていた。
 74年(同49年)、菅原さんの活躍が本紙の体験欄に掲載された。そのことも先生は覚えていたのである。
 菅原さんの奮闘をねぎらった先生は、そばで支える妻の邦子さん(県婦人部主事)にも、和歌を贈り、陰の献身を讃えた。
 菅原さんは初代道東圏長、邦子さんは婦人部本部長として別海広布の礎を築いた。長男の宏昌さん(前進勝利長)・真寿美さん(白ゆり長)夫妻が家業を継ぎ、発展させている。
 ◆◇◆ 
 14日の夕方に研修道場で行われた開設5周年記念勤行会を終えると、先生は標津町へ向かった。学会員が経営する食堂を訪れ、懇談会を開いた。
 当時、小学生だった阿部志津子さん(支部婦人部長)の両親が懇談の場に参加した。
 父・善美さん(故人)は水産加工の工場を営み、鮭トバや魚の干物等を販売していた。だが前年(77年)、アメリカとソ連が、自国の漁業専管水域を200カイリとしたことに影響を受け、やむなく工場を閉鎖。山菜などを採り、塩漬けにしたものを売って、生計を立てた。
 子どもは6人。善美さん夫妻は生活費をやりくりして、上の2人の子どもを創価大学に送り出していた。
 先生は、善美さんの近況を聞きつつ、「この1年間、題目をあげにあげなさい」と強調。さらに、「仕事を甘く考えず、信心を根本に経済革命するんです」と語った。
 そして「必ず立ち直ってください」と約束を交わし、「創価大学に通う息子さんにも、お題目を送ってあげてください。遠く離れていても、祈りは全て通じます」と励ました。
 翌15日、研修道場での集いに参加した阿部さん。一人一人の同志を、全身全霊で励ます師の気迫が、幼心に焼き付けられた。
 「先生は、ある男性の肩を何度も強く抱きながら、“絶対に負けるな”と、命を注ぎ込むかのようでした。ここまで人を励まされるのかと驚きました」と述懐する。
 師との出会いの後も、善美さんの苦境は続いた。だが、“先生との約束を果たすんだ”と祈り続け、経済革命を成し遂げた。
 子どもたちは皆、広布の後継者に。阿部さんも、師の心を胸に励ましに駆ける日々だ。
 16日まで道東に滞在した先生は、飛行機に間に合うぎりぎりの時刻まで、友との語らいを続けた。
 その後、札幌、厚田で諸行事に出席し、わずかな時間を見つけては訪問・激励を重ねた。20日からは函館へ。その折にも激務の合間を縫って、会員宅へ足を運び、励ましを送っている。
 ◆◇◆ 
 78年の北海道訪問で、先生は約5000人の友と記念撮影。延べ2万人の会員と会い、多くの和歌・句を贈った。
 時を逃さずに、直ちに行動を起こす。
 もっとこまやかに、もっと温かくと、心を尽くし抜く。
 その師の激闘と、師に連なる友の誓願の行動で築かれたのが、難攻不落の三代城・北海道である。