世界一なる心の長者よ
創価学会に農・漁業等に従事する農村部(現・農漁光部)が誕生したのは、1973年(昭和48年)10月。今月で45周年を迎えた。
人間の生活の営みは、「食」を支える人々の奮闘によって成り立っている。
ゆえに、第3代会長に就任して以来、池田先生は一貫して祈り続けてきた。
「豊作であるように」
「豊漁であるように」
そして、“農漁村に最大の感謝と最敬礼をささげることこそ、正しき「人間の道」「生命の道」である”と、農漁光部の友に励ましを送り続けてきた。
「“花のおかげで、池田先生がわが家に来てくださった。だから花を作り続けて、花の中で死んでいきたい”――義理の父母はいつも語り合い、先生との出会いに感謝していました」
辻村厚子さん(四国副婦人部長)は、そう振り返る。
72年(同47年)6月19日、池田先生は香川で花卉業を営む辻村清一さん・喜三枝さん夫妻(ともに故人)宅を訪れた。
ガラスの温室では、菊やカーネーションが胸元まで伸び、色とりどり。一花一花をめでる先生に、「花を切ってみてください」と清一さんが勧める。
「切っていいのかい? きれいなお花を切るなんて初めてだよ」。先生は慎重にはさみを入れ、栽培の苦労に耳を傾けた。
香川で花卉栽培を始めた清一さん夫妻は、学会活動にも懸命に励んだ。県で初めてガラスの温室を導入。同業者で組合を立ち上げて出荷先を広げるなど、地域の旗振り役となっていた。
地道に実証を積み重ねてきた夫妻に、先生は「爛漫と 功徳の花あり 金の家」と揮毫し、贈っている。
その後も「忘れまじ あの日の出会い 六月十九日」と書き記して厚子さんに贈るなど、真心の交流を重ねてきた。
93年(平成5年)12月、香川を訪問した先生に厚子さんが感謝を伝える機会があった。
そこでは、厚子さんが学生時代に高村光太郎の詩集『智恵子抄』を愛読していたことが話題に。先生は「広布の中で、自分自身の詩を書いていくんだよ。“厚子抄”でいこう」と。そして、清一さん夫妻への心からの感謝を、厚子さんに託した。
清一さん夫妻は亡くなる直前まで温室に立ち、地域に友好を広げてきた。
その父母の心を継ぎ、四国農漁光部女性部長として激励に走る厚子さん。何度も励ましを重ねてきた香川・小豆島の婦人部員は、逆境をはね返して地域再生の灯台として光る存在に。そうした友の奮闘を、池田先生は地元の「四国新聞」への寄稿で紹介した。
農漁光部に寄せる師の真心を胸に、厚子さんは地域に爛漫と功徳の花を咲き薫らせている。
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77年(昭和52年)2月17日、農村部の第1回勤行集会で、池田先生は、農漁光部の指針となるスピーチを残した。
「何十年、何百年先の展望のうえからも、妙法下種の“当体”であり“灯台”としての使命を果たしていくとき、それは壮大にして根源的な広布の礎となっていくのである。こうした観点から、私は“下種の灯台”“地域の灯台”“学会の灯台”たれ、と申し上げておきたい」
佐々木登さん(総秋田、副県長)は、この指針を命に刻む。
日本屈指の大規模営農を誇る秋田県・大潟村。琵琶湖に次ぐ大きさだった八郎潟を干拓してできた。佐々木さんはこの大地で、16ヘクタールの田畑を用いて、米、麦、大豆を生産している。
56年(同31年)、貧乏のどん底の中で母が入会。翌年、佐々木さんも続いた。
徐々に経済革命を果たし、耳が不自由だった兄が聴覚を取り戻した姿に、信仰の確信を深める。創価学園開校の知らせを聞くと、受験を決意。誉れの1期生として合格を勝ち取った。
高校2年に進級する前のある日、数人の生徒と一緒に校内の一室に呼ばれた。皆、成績が振るわない生徒だった。部屋で待っていたのは、創立者の池田先生だった。
先生は、佐々木さんの体調を気遣いつつ、力強く語った。
「21世紀が君の舞台だ。どんなにつらいことがあっても、苦しいことがあっても、絶対にやけになってはいけない。やけになったら自分の負けだ。歯を食いしばって頑張るんだよ」
温かな慈愛が心に染みた。創価大学へ進学し、卒業後は地元の工務店に就職。85年(同60年)、妻の陽子さん(総秋田、地区副婦人部長)との結婚を機に婿養子となり、大潟村へ。工務店を辞め、農業を始めた。
これまで、台風が一夜で多くの籾を落としてしまったことや、自身が体調を崩したこともあった。苦難に直面するたびに、学園時代の師の励ましを思い起こし、歯を食いしばった。
陽子さんや家族と団結し、作物と対話する思いで様子を見回り、愛情を注いで作業に当たる中で、村でトップの収穫高を上げたこともある。
地域の発展にも尽くそうと、村の取り組みである「子ども海外研修実行委員会」で長年、実行委員長を務め、韓国の中学校との交流を推進。現在も顧問として奮闘する。
「自然と共に生きる喜びを胸に、“地域の灯台”を目指し、さらに精進していきます」
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瀬戸内海に浮かぶ「走島」。この島で15年連続トップとなる「ちりめん」の水揚げを誇るのが、小林モトコさん(総広島、支部副婦人部長)一家が営む「功保水産」である。
小林さんが姉の勧めで入会したのは67年(同42年)。祈るほどに体に力がみなぎり、信心への確信を強めた。しかし、地域に学会員は小林さん一人。島民は学会に批判的だった。
そんなある日、出漁の準備が整ったのに、漁の仲間が姿を見せない。信心を始めた小林さんへの露骨な嫌がらせだった。
やがて、漁に出ることができなくなった。だが、小林さんは負けない。皆が寝静まった頃、御本尊に向かった。
畳に穴があくほど時を忘れて祈る中、一家で新たに始めたのが「ちりめん漁」だった。
ほそぼそと漁を続けていた小林さん一家に、大きな転機が訪れたのは75年(同50年)。原因不明の皮膚病に悩んでいた夫の実二さん(総広島、地区幹事)が入会を決めた。
「同志」を得て、小林さんの祈りに拍車が掛かった。さらに第3回離島総会(80年11月)で師との生涯の原点を刻む。
この総会で、池田先生は小林さん夫妻に呼び掛けた。
「走島の皆さんを照らす灯台のような存在に!」
「灯台」と聞き、小林さんの祈りが変わった。
「最初は、悠々と題目を上げたいというのが一番の願いでした。でも先生は、『灯台』と言われた。だから、実証を示して走島を引っ張っていこうと心から誓いました」
“先生の期待にお応えしていこう”――その夫妻の唱題に呼応するように、漁獲量は増加。船や設備も拡充し、島全体の近代化を先導した。
小林さん夫妻のちりめんは、最高級のブランドとして知られるようになった。夫妻の信心の実証に、島民の学会理解も深まり、地域世帯の3分の1以上が本紙を購読したこともある。
ちりめん漁は、次男の清剛さん(同、開拓長〈ブロック長〉)が後を継ぐ。嫁の和美さん(同、支部婦人部長)や孫に囲まれる今、小林さん夫妻の胸には、人々に希望を示す「灯台」にとの誓いがいや増して燃えている。
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千葉・木更津市の干潟でノリ養殖、定置網を利用したすだて漁を営む実形博行さん(総千葉、地区部長)。3代目として、40年近く海と共に生きてきたベテランだが、「相手は自然。“こうすれば、こうなる”という努力が通用しない難しさがあります」と語る。
ノリの胞子を付けた網を海に出すタイミング、網の張り方、水温の微妙な差。さまざまな要因によって、すぐ隣に張った網と結果が違うことも。昨年は台風に漁場を荒らされた。「それでも納得のいく味に育って、“新ノリ”を口にした時の喜びは格別です」
2007年(平成19年)、漁師仲間数人でNPO法人をつくり、昔ながらのアサクサノリを再現。その模様がNHKで生中継された。
すると、実家がノリ製造業を営んでいた池田先生から、親しみのこもった伝言が届いた。
「テレビを見たよ。私はアサクサノリの本家本元なんだよ」
“地方の一漁師に、ここまで心を砕かれるのか”。妻の和子さん(同、支部婦人部長)と共に、胸を熱くし、師への報恩を貫く生涯を誓った。
5年前、作業中に右手が機械に巻き込まれる大けがを負ったが、手術は成功。後遺症もなく、仕事に復帰することができた。地域では「木更津金田の浜活性化協議会」で会長を務めるほか、東京の小学校で10年以上、ノリ養殖の体験教室に携わる。
昨年、地区部長に就き、人材拡大に奔走する。長女のゆりやさんは総県女子部長、次女のあやさんは県女子部長、長男の謙さんは男子部部長と、広布後継の大道を進む。
実形さんの入会当初、信心に大反対だった母の初惠さんも、温かな創価家族に触れ、本年春に御本尊を受持した。
「『一人を大切に』との指針を誰よりも実践されているのが池田先生だと思います。地域で、広布の舞台で、さらに実証を示します」
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池田先生は農漁光部の友への万感の思いを詠んでいる。
朗らかに
いのちの讃歌の
農漁村
閻浮一なる
心の長者よ
先生の励ましを思う時、農漁光部の友の心には、不屈の前進の魂が湧き立つ。
農漁光部歌「誉れの英雄」を高らかに響かせ、地域の灯台として活躍する一人一人を、師は合掌する思いで祈り、見つめている。