〈友のもとへ 池田先生の激励行〉

〈友のもとへ 池田先生の激励行〉7 従藍而青の未来部 2018年8月4日 君たちが新たな黎明をつくれ

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君たちが新たな黎明をつくれ
君たちは創価の希望! 世界の宝!――次代を担う友に励ましを送る池田先生(1996年6月、アメリカ・ニューヨーク文化会館で)

 藍染めの原料になる植物の藍は、8月いっぱいが収穫の時期という。
藍から抽出した青い染料で、布を何度も染めると、もとの藍よりも濃く鮮やかな青色になる。
御書には「従藍而青(藍よりして而も青し)」の例えが、「後継者の成長」の意味として用いられている。
池田先生は「従藍而青」の言葉を引きつつ、人材育成において「関わる側が信じ抜く」大切さを強調する。その通りに、先生は後継の友を信じ、励ましを送り続けてきた。
1969年(昭和44年)2月11日、愛知県体育館で開催された中部幹部会で、少年少女部や高等部のメンバーが合唱を披露した。壇上の男女高等部員の姿を、すぐそばにいた先生は、じっと見守った。
合唱を終えた後、先生は2人のメンバーを手招きして呼ぶと、握手を交わし、励ました。
その一人が、加藤敏彦さん(東京・八王子総区、副本部長)。加藤さんは革靴、もう一人は古い運動靴を履いていた。
「私の革靴は、あまりいい靴ではありませんでした。先生は履いている靴を見て、私たち2人を激励してくださったのです」
先生は、こんなにも温かく、こまやかな配慮をしてくださるのか――加藤さんの胸中に、師への感謝があふれた。
加藤さんは国公立大学への進学を目指していた。だが、志望校には合格できなかった。その報告を聞いた先生は、「長い人生の中では、浪人も貴重な経験になります」と励ましを寄せた。
その後、加藤さんは、開学間近の創価大学に志望を変え、合格を勝ち取った。
「もともとは自分中心な性格でした。浪人生活を経たことで、人生には思うようにならないことがあり、信心と努力が、どちらも必要であることを知りました。そして、相手の立場に立つ大切さを学ぶことができたのです」
高等部の担当者は、卒業後も、何かあるたびに寄り添ってくれた。“こういう人になりたい”と思える先輩が数多くいた。
73年(同48年)7月、創大の第2回滝山祭で、加藤さんは先生に直接、お礼を伝えることができた。先生は家族の状況などを尋ね、励ましを送った。
加藤さんは卒業後、大手設備工事会社に就職。事務畑で実績を重ね、定年を過ぎた今も、会社から請われて後進の育成に当たる。
「師を心の中心に置いて歩む人生の大切さ、励ますべき時を逃さない先生のお心を、自身の行動で伝えていきたい」と語る加藤さん。本部の未来本部長として若き友の成長に尽くす。
◆◇◆
「よく来たね。待っていたよ」
バスから降りてくる未来部のメンバー一人一人を、池田先生は真心で迎えた。
70年(同45年)6月27日、神奈川・箱根の研修所に、60人の未来部員が集い、東京未来会第1期が結成された。
懇談会で先生は「みんな、いい顔しているね」と語ると、「成績は大丈夫?」と。皆が「1番です」と元気よく順番に答える中で、小林多喜子さん(滋賀総県、総県婦人部副総合長)はうつむきながら、ただ一人「2番です」と返答した。
先生は「青年の本当の力は、“1番になってみせる”という気概の中で出てくるんだよ」と語り、「前へおいで」と小林さんを招いた。
「名前は?」
「多喜子です」
「どういう字を書くの」
「『多く』『喜ぶ』『子ども』と書きます」
「いい名前だ。信心を貫いていけば、必ず喜び多き人生になっていくよ」
さらに、先生は「生きるって、どういうことか分かる?」と尋ねた。「分かりません」と小林さん。先生は力を込めた。
「どんなにつらいことがあっても、悲しいことがあっても、生きて生きて生き抜くことを、生きるっていうんだよ」
小学校の卒業式の日、母が大動脈弁閉鎖不全症で倒れた。中学に進学後は、小林さんが家事を担った。父は定年を迎えていた。
経済的に苦しく、高校進学も諦めていた。だからこそ、師の一言が心に染みた。小林さんの目から涙があふれ出た。
先生は「泣いてはいけない。未来っ子は未来に生きる人じゃないか。前を向いて生き抜いていくんだ」と重ねて励ましを。そして、「私も今、生き抜いているんだ」と語り、あえて強く皆に訴えた。
「羊千匹はいらない。獅子一匹でいいんだ」
懇談会が終わると、先生はメンバーと一緒に花火を。その折、小林さんに「創価大学で待っているよ」と語った。
高校卒業後、小林さんは学費をためるために、アルバイト生活をすることに決めた。“娘を創価大学に行かせてやりたい”と、父もアルバイトを掛け持ちした。翌年、小林さんは創価大学への入学を果たした。
大学を卒業して数年後に結婚。87年(同62年)、夫・元さんのすい臓に腫瘍が見つかった。
その2年後、滋賀を訪れた先生は、小林さん夫妻に「生きて生きて、滋賀広布に尽くしていきなさい」と渾身の励ましを送った。
元さんは生命の危機を何度も乗り越え、更賜寿命の実証を示し、一昨年、霊山へ旅立った。
今、“夫の分まで”と自身の使命の舞台で全力を注ぐ小林さん。その笑顔には、“師に応える人生ほど、喜び多き人生はない”との確信があふれている。
◆◇◆
72年(同47年)9月15日、先生は広島を訪問。6000人の友との記念撮影会に臨んだ。
その2カ月前、九州や東北など、各地に被害をもたらした「昭和47年7月豪雨」で、中国地方も甚大な被害を受けていた。
島根では豪雨によって、宍道湖の水があふれ、松江市内が浸水した。広島の撮影会の2日後、先生は島根の記念撮影会に出席した。
この時、先生の来県を知った男女中等部員10人が松江会館(当時)に駆け付けていた。先生は松江市内での撮影会を終えると、同会館に向かい、居合わせた友と一緒に勤行。10人の姿を見つけると、激務の合間を縫って、懇談のひとときを持った。
先生はおにぎりを振る舞い、一人一人に声を掛け、語った。
「君たちは、体力の面でも、知恵の面でも、立派に成長していってほしい。その時を、私は待っているんだよ」
10人の中に、体格のいい男子中等部員がいた。梅谷裕理さん(島根総県、副支部長)である。
先生は「何かクラブ活動はしているの」。「柔道をしています」と梅谷さん。すると、先生は「よし、柔道をやろう」。
梅谷さんは先生と組んだものの、投げるわけにはいかない。“どうしよう”と思っていると、先生は自ら倒れるようにして、背中を畳につけた。
周囲に広がる歓声と笑い。梅谷さんは後ろから先生を抱えて起こした。
最後に、先生は「来年も島根に来るから、また会おう」と約束した。
翌73年9月16日、先生は松江会館を再訪。翌日に鳥取・米子市で開催される総会に10人を招待し、約束通り、再会を果たした。
師の励ましを原点に、梅谷さんは“社会で実証を示そう”と奮闘を重ねた。しかし、30代半ばで立ち上げた土木会社は、バブル崩壊のあおりを受け、廃業に追い込まれた。
祈りに祈り、再就職した土木会社では、それまでの技術と経験を生かして信用を積み重ねた。2年前、周囲から請われ、新たな会社の役員に就いた。
梅谷さんは「先生への感謝を忘れず、生涯、学会と共に広布の人生を歩んでいきます」と誓う。
10人の一人、西野武司さん(同、副圏長)は、金融機関に就職し、53歳から支店長に。学会活動も一歩も引かずに挑戦してきた。
父の姿を見て育った長女・淳子さん(総広島、白ゆり長)、次女・幸子さん(島根総県、女子部本部長)も、信心根本の生き方を受け継いでいる。
◆◇◆
65年(同40年)1月1日、本紙で小説『人間革命』の連載が、「黎明」の章から開始された。この年の8月、先生は未来部員と懇談した。
「小説『人間革命』の結末は、どうなるのですか」
率直に質問するメンバーに、先生は答えた。
「黎明に始まり、黎明で終わるんだ」
先生は小説の構想の一端を明かすと、未来部に広布の一切を託すかのように、万感の思いを語った。