「先駆は常に嵐」
「先駆は常に激戦」
「先駆は常に労苦」
池田先生が九州の友に示した指針である。
「先駆」――その使命に燃え、九州の友は熾烈な障魔の嵐を勝ち越え、新たな広布の歴史を切り開いてきた。
池田先生の九州訪問の中でも、1990年(平成2年)9月22日からの激励行は、“嵐の九州縦断指導”として、友の不滅の原点と輝く。
韓国初訪問の帰途、先生は空路で九州入りした。福岡、佐賀、熊本と南下し、鹿児島へ。この時、台風が接近していた。嵐が迫る中、先生は鹿児島行きを断行した。
折しも第2次宗門事件が表面化する直前。“嵐”を前に刻まれた11日間の九州縦断指導は、激務の合間を縫って、一人また一人に勇気の炎をともす励ましの連続であった。
◆◇◆
韓国をたった先生が福岡に到着したのは、90年9月22日の夜。23日には修学旅行中の関西創価中学生と記念撮影を行い、九州最高会議に出席。翌24日、佐賀を訪問した。
「来たよ!」「13年ぶりだったね」――先生は懐かしそうに語り、草創の同志の出迎えに応えた。
その一人が中本民夫さん(故人)。長年、県長として佐賀広布に力を尽くし、5人の子を創価の学びやに送り出してきた。
先生は、家族の様子を報告する中本さんの話にじっくり耳を傾け、「子どもが後継の人材としてしっかり育っていることは、すごい財産だ。生々世々、功徳は大きいよ」とたたえた。
さらに、「佐賀は『栄えの国』だ」「これからどんどん良くなるよ。日本一、世界一の都になる」と万感の期待を語った。
炭鉱が盛んだった北波多村(現・唐津市)に生まれた中本さん。両親共に家計を支えるため、幼い頃から働き、十分な教育を受けることができなかった。
わが子に同じ苦労をさせまいと奮闘する両親のおかげで、中本さんは東京大学に進学。化学繊維会社に就職した後、地元に戻って家業を手伝った。
77年(昭和52年)5月、佐賀を訪問した先生が中本さんの両親を会館に招き、広布の労をねぎらった。中本さんは一人を大切にする師の姿を心に焼き付け、弘教に駆けてきた。
長女の登坂妙子さん(九州総合婦人部長)は、そうした“先生一筋”に生きる父の背中を見て育った。
創価大学に学んだ後、東京で働き始めていた登坂さんにとって、忘れられない師との原点がある。社会人1年目の時、地元・佐賀への転勤の話が来た。その折、女子部の代表として、東京・立川文化会館で池田先生と懇談する機会があった。
先生は語った。「どこにあっても同じだよ。私と一緒に広宣流布の大道を歩むのだから」
師の一言に、心がぱっと晴れた。佐賀に戻った登坂さんは、女子部のリーダーとして、友の激励に奔走。“今、ここが池田先生との共戦の舞台”と定め、自分を奮い立たせてきた。
登坂さんは佐賀県女子部長等を歴任し、結婚して福岡へ。先生の90年9月の佐賀訪問では、父の中本さんと佐賀文化会館に駆け付けている。
会館のロビーで、「佐賀に来てくださり、ありがとうございます!」と感謝を述べると、先生は、九州の地で元気に活躍する登坂さんとの再会を喜び、心から祝福した。
その後、登坂さんは九州婦人部長として友の激励に奔走。2人の子も広布後継の道を歩む。
祖父母、両親、登坂さん、子どもたち――。4代にわたって、師の励ましの光が注がれている。
◆◇◆
佐賀訪問の翌日(9月25日)、学会創立60周年を記念する九州総会が福岡の九州池田講堂で開催され、全九州から友が喜び集った。
先生は同講堂で、アルゼンチンのブエノスアイレス大学総長と会談等を行う傍ら、集った友を次々に激励している。
9月27日、講堂周辺に駆け付けた友の中に、樋口博さん・暢子さん夫妻(ともに故人)と長女の鰐淵典子さん(総福岡、区婦人部主事)の姿があった。
先生は博さんの姿を見つけると、「やあ」と片手を上げ、敬礼を。博さんも、手を上げて返礼した。
博さんは戦時中、軍医として中国・満州へ。9年にわたって従軍した。
戦後は、戦争で命を失った友らの分まで社会に貢献したいと、内科・小児科の病院を開業し、地域に尽くした。貧しい家庭から診療代を取らなかったことも、1度や2度ではない。
3市2町からなる筑紫医師会の会長を務め、「筑紫の赤ひげ先生」と呼ばれた。
信心を始めたのは55歳の時。医院の開業から20年の節目だった。その後、結成された創価学会ドクター部では、医師のいない地域で住民の無料健康相談を行う「黎明医療団」の派遣が始まった。博さんもその一員として奔走した。
87年(昭和62年)10月、先生は九州文化会館(現・福岡中央文化会館)で、博さんの広布功労をたたえつつ、周囲の友に語った。「この方は、ずっと陰で学会を守ってくれたんだ。こういう方を大事にしていくのが学会なんだ」
陰で奮闘する同志と共に、その家族にも温かな励ましを送り、見守り続ける。それが先生であることを、長女の典子さんは心から実感する。
夫の敏文さん(同、副本部長)が、仕事先の奄美で倒れたことがあった。頭部を硬い床に打ち付け、両耳の鼓膜を損傷。首の骨を折る重傷だった。
奄美の病院に駆け付けた典子さん。敏文さんの回復に望みがないかのような発言を繰り返す医師に、「夫は頑張ります」と返すのが精いっぱいだった。
その直後、池田先生から温かな激励が。どこまでも一人を思う師の真心に、感謝の涙があふれた。“絶対に夫を救ってみせる”。夫のそばで無我夢中で祈った。1週間で敏文さんは奇跡的に回復。再び、仕事に復帰することができた。
その典子さん夫妻に、池田先生は「ふたりして 父はは つつみて 広布旅」との句を贈っている。
後年、典子さんはがんを患った。2回の手術は無事に成功。その後も、“私には信心がある。師匠がいる。同志がいる”と懸命に祈り、病と闘い続け、寛解を勝ち取った。
3人の娘も使命の道を進む。典子さん夫妻は、師の励ましを胸に、友のもとへと充実の日々を送る。
◆◇◆
コスモス満開の熊本池田平和会館を初訪問した先生は9月28日、熊本・大分合同の記念の会合へ。月刊誌のインタビュー等にも応じた。
また、大分、長崎の友への伝言を託し、29日には鹿児島・霧島の九州研修道場(当時)に向かった。
熊本から研修道場までは約150キロ。台風の影響で、猛烈な風雨が吹き荒れていた。それでも先生は、“青年たちが待っている”と鹿児島へと向かった。
道場に到着した頃、風雨はピークに達していた。無事到着を祈り待っていた友に、先生は「嵐の霧島もいいものだね」。香峯子夫人も「歴史になりますね」と。さらに、先生は同志の無事安穏を祈念した。
夕方には雨が上がり、空はあかね色に染まっていた。
「あんなにきれいに、オレンジ色に輝く空を見たのは初めてでした」――役員を務めた水尻則久さん(宮崎総県、副県長)が回想する。
先生の研修道場滞在は4日間。世界広布30周年を記念する勤行会などの行事が続く中、多くの友が先生との原点を築いている。
この時、水尻さんら宮崎の同志は、友に喜んでもらいたいと、即席の“喫茶店”を準備した。
店名は「キルギス」。同年7月、先生はソ連(当時)を訪問し、キルギス共和国の作家・アイトマートフ氏と語らいを。翌月には、日本で再会し、本部幹部会のスピーチ等でキルギスについて触れていた。
店内には、キルギスに関する写真などが飾られていた。先生はたびたび同店へ。民族衣装をまとったスタッフと談笑した。
スタッフを務める壮年は全員が自営業。先生は一人一人の状況を尋ね、力強く励ました。
設計会社勤務を経て、自身の事務所を構えていた水尻さん。なかなか生活は安定しなかったが、妻の美千子さん(同、県副婦人部長)と活動に励む中で経済革命を成し遂げた。文化班(当時)の一員として県内を走り、宮崎の全国模範の弘教拡大にも貢献した。
10年前、再び経済苦が襲った。水尻さんは再起を期し、派遣社員に。大阪、福岡、熊本に単身赴任した。
“九州の男が負けてなるものか”と、諦めず、腐らず、唱題を続けた。約4年後、思ってもみない好条件で建設会社への再就職が決まり、師に勝利の報告を届けることができた。
2010年から付け始めた唱題表は、8年連続で150万遍を突破した。その祈りの根幹は、師への報恩である。
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1990年9月30日、台風一過の九州研修道場で行われた全国男子青年部幹部会で、先生は厳愛の指導を送った。
「弟子を思う師の心は、弟子が考えるよりはるかに深いものである。その心がわからないということは、弟子にとってこれ以上の不幸はない」
九州縦断指導のさなか、先生は友に詠み贈った。
偉大なる
連続勝利の
九州は
先駆の道をば
師子の如くに
心に師を抱き、師と対話し、師への誓いを果たさんと懸命に行動する。
その実践によってのみ、広布の連続勝利の金字塔が打ち立てられることを、九州の友は深く知っている。