〈友のもとへ 池田先生の激励行〉

〈友のもとへ 池田先生の激励行〉6 「平和の宝島」沖縄 2018年7月24日 ここは「人間革命の人材の都」

スポンサーリンク
ここは「人間革命の人材の都」
次代を担う未来部のメンバーに心からの励ましを送る(1991年2月3日、沖縄研修道場で)

 第2代会長・戸田城聖先生の生誕93周年となる1993年(平成5年)2月11日、小説『人間革命』全12巻の連載が完結した。
この日、池田先生はブラジルで、リオデジャネイロ連邦大学の名誉博士号授与式に臨んだ。
同年1月24日から、57日間に及ぶ北南米指導が始まっていた。この平和旅に、沖縄総長を務めた三盛洲洋さん(故人)も同行した。
“なぜ、先生は私を呼んでくださったのか”と、その意味を三盛さんは考えていた。すると、先生は「ここに君を連れてきたかったんだよ」と。
73年(昭和48年)6月26日、本紙1面に「生命の世紀への船出」との記事が掲載された。そこには64年(同39年)12月2日から、小説『人間革命』が書き始められたことが記されていた。
三盛さんは、はっとした。その日は、沖縄学生部の部員会で、師との出会いを刻んだ日だった。
三盛さんは“執筆場所は沖縄ではないか”と本紙の記者に問い合わせた。記者から質問を受けた先生は、「誰が聞いてきたんだい」と尋ね、「私は執筆開始からずっと黙っていた。一体、誰が気が付くか、それを待っていたんだよ」と。
20年の時を経て、小説『人間革命』の連載完結の時に、師と共にブラジルの天地にいることに、三盛さんの感謝の思いは尽きなかった。
◆◇◆
60年(同35年)7月16日、先生は沖縄に第一歩をしるした。この日は、日蓮大聖人が時の権力者に「立正安国論」を提出し、国主諫暁をした日から満700年の時に当たっていた。
酷暑の季節。“もっと涼しい時期に”と沖縄訪問に反対する意見もあった。だが、先生は「同志の労苦は、最も大変な時に現地へ行かなくては分からない」と沖縄行きを決行した。
翌17日、沖縄支部が結成。訪問最終日の18日には、沖縄戦の激戦地であった南部戦跡を視察した。
その折のことを、後に先生は長編詩「永遠たれ“平和の要塞”」に詠んでいる。
「世界不戦への誓いを固めつつ思った/いつの日か書かねばならぬ/小説『人間革命』の筆を/もっとも戦争の辛酸をなめた/この沖縄の地で起こそうと」
南部戦跡の訪問は、小説『人間革命』の執筆を沖縄から始める契機の一つとなったのである。
先生は「ひめゆりの塔」の前に立ち、題目を三唱。その後、「鉄血勤皇隊」と呼ばれた学徒隊の慰霊碑「健児之塔」に足を運んだ。
そこでも題目を三唱すると、先生は力を込めた。
「戦争は悲惨だ。こんな悲劇を二度と繰り返しては断じてならない」
17回にわたる沖縄訪問において、こうした不戦への誓いを、先生は幾度も語ってきた。
99年(平成11年)2月12日、沖縄平和記念墓地公園を初訪問した折には、「永遠平和の碑」に向かって、題目を三唱。そして、強い口調で語った。
「もう二度と、沖縄に戦争はない。できない!」
その場にいた湖城睦子さん(県総合婦人部長)は、師の叫びに胸が震えた。
母・登美さん(県婦人部主事)は沖縄戦で、米軍の砲弾射撃の中を逃げ、糸満の自然壕にたどり着いた。
そこで、登美さんは信じがたい光景を目にする。
壕の中には、泣き叫ぶ赤ちゃん、食料を求めて泣く幼児がいた。日本兵は米軍に見つかることを恐れ、子どもを泥水の中に投げ捨てた。さらに、子どもの命を奪われ、発狂する母親を、日本兵は壕の外に放り出した。こうした悲劇が沖縄の至る所で繰り返された。
戦後、登美さんは日本との貿易業など、さまざまな仕事を手掛けた。だが、知人の連帯保証人となり、多額の負債を抱えてしまう。絶望のどん底で、65年(昭和40年)に信心を始めた。
入会後、名護城跡でコテージを営み、家計は上向き始めた。仏法対話に走り、学会の平和運動にも取り組んだ。睦子さんも母の後に続いた。
20年ほど前、睦子さんは母と一緒に、糸満市摩文仁の平和祈念公園にある記念碑「平和の礎」を訪れた。
記念碑の先には海が広がっている。ところが、登美さんは海の方へ、まったく近づこうとしなかった。そこは、沖縄戦で追い詰められた多くの人が身を投げた場所だった。
一歩も動かない母の姿に、睦子さんは“癒えない戦争の傷が、まだ母にはある”と感じた。
人には言えない苦しみを心の奥底に抱えながら、縁する人と共々に幸福の道を進もうと、登美さんは数多くの弘教を実らせた。睦子さんも、名護広布に駆けてきた。
91年(平成3年)2月6日、名護平和会館を初訪問した先生は、国頭圏(当時)の記念勤行会に出席。湖城さん母娘をはじめ、草創の友の名前を挙げ、広布への功労をたたえつつ、呼び掛けた。
「どうか皆さま方は、自然に恵まれたこの地を舞台に、使命の道を悠々と進み、永遠に崩れざる幸の楽土を築いていっていただきたい」
以来、27星霜。師の言葉のまま、睦子さんは地域に根を張り、平和と幸福の連帯を広げ続けている。
◆◇◆
琉球王国の時代から、沖縄はアジアを結ぶ文化交流の懸け橋であった。沖縄には世界に開かれた心が脈打っている。
池田先生は「沖縄を『世界広宣流布のモデルの宝土に』」と訴え、次代を担う友の心に励ましの種をまいてきた。
91年2月3日、沖縄未来部の代表との記念撮影会が行われた。先生は「みんなは21世紀の広布の後継者だよ」と語り、カメラに納まった。
久山賢一さん(支部長)は当時、高校3年生。撮影会での師の期待に、教師という「夢」が「誓い」へと変わった。
教員採用試験は不合格が続いた。それでも“教育は師匠に誓った道”と諦めず、高校の地理歴史科で合格を勝ち取った。
授業では、史観を養う大切さや、歴史を通して人間としての生き方を伝えるなど、工夫を重ねている。
そんな久山さんには、もう一つの忘れられない師との原点がある。
2005年(同17年)3月、沖縄青年部の企画・制作で、「人間革命」展が開催された。当時、沖縄青年部の平和委員会委員長を務めていた久山さんも、同展の準備に当たった。
展示に携わるメンバーで、『人間革命』を研さんした。その中で、執筆を開始した「12月2日」は、フランスの文豪・ユゴーが、独裁者のルイ・ナポレオンに対して、正義の言論闘争を宣言した日であることが分かった。沖縄青年部は、その歴史を資料にまとめて、池田先生に届けた。
すると、先生はその内容を「随筆 人間世紀の光」で取り上げ、「私は、本当に嬉しかった。若き諸君の努力に『栄光あれ』『勝利あれ』と、私も真剣に祈り、励ましを送った」と、たたえたのである。
青年に期待し、どこまでも信じる。真心には、それ以上の真心で応える。
その師の心を心として、久山さんは「平和の楽土」の建設へ、力強く進む。
◆◇◆
髙安かおりさん(支部婦人部長)も、記念撮影会に参加した一人だ。
小学生の時から鼓笛隊で薫陶を受け、女子部時代には2人の友人を入会に導いた。95年(同7年)3月26日、沖縄研修道場で行われた第1回「沖縄記念総会」で、群星合唱団の一員として、師の前で歌声を披露したことは、黄金の思い出だ。
婦人部に進出後も、対話に駆けてきた。未入会だった夫・修さん(壮年部員)は3年前に信心を始めた。今年、教学部任用試験(仏法入門)にも合格した。
夫の親族も、髙安さんの紹介で次々と入会。師の沖縄初訪問の日である今月16日には、同郷の友人に弘教を実らせた。
「一家和楽の道を歩むことができたのも、池田先生の励ましがあったからこそです。生涯、報恩の道を進みます」
――世界広布の歴史を繙くと、草創期の南米のペルー、ボリビア、チリのリーダーを務めたのは沖縄出身の友だった。アメリカやヨーロッパ、アフリカなど、世界各地へ、沖縄の友は雄飛していった。
「我らが開いてきた沖縄の楽土郷は、『人間革命の人材の都』であります」
池田先生は沖縄への万感の思いを、そうつづった。
沖縄の同志に、全人類の宿命転換の先駆けとなる使命を示し、手作りで世界広布を担い立つ人材をはぐくんできた先生。
その師への感謝と、“愛する島を世界で最初の広宣流布の地帯に”との師への誓願が、「平和の宝島」に光り輝いている。

沖縄平和記念墓地公園の「永遠平和の碑」の前で、厳粛に平和への祈りをささげる(1999年2月12日)