〈友のもとへ 池田先生の激励行〉

〈友のもとへ 池田先生の激励行〉10 2018年11月23日 反転攻勢の四国指導 広布史に 輝くロマンの 詩国あり

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反転攻勢の四国指導
広布史に 輝くロマンの 詩国あり
高知支部結成25周年を記念する勤行会に出席した池田先生が、参加者らを激励(81年11月13日、四国研修道場で)

 「学会創立の月」である11月は、四国の同志にとって、師との不滅の原点が刻まれた月だ。
それは、1981年(昭和56年)11月の四国指導。「反転攻勢」と呼ばれる、池田先生の激励行は、師弟の絆を分断しようとする邪宗門の謀略を打ち破り、世界広布へ、学会が飛翔する一大転機となった。
井上里子さん(徳島総県、県婦人部主事)は述懐する。「第1次宗門事件の勃発後、宗門の悪僧は、口を開けば学会への罵詈雑言ばかりでした」
まさに、「衣の権威」で信徒を隷属させようとする策謀であった。そこには、日蓮仏法の精神など微塵もなかった。
卑劣な学会攻撃に臆せず、四国の友は師を求めて大型客船「さんふらわあ7」号で神奈川の地へ(80年1月、5月)。井上さんも夫の保さん(同、圏主事)と共に乗船した。
さらに81年10月、四国青年部は、先生の平和行動展を開催。聖教新聞にさえ先生がほとんど登場できない中で、自発的に企画・推進した催しであった。
この友の心意気に応え、11月9日、先生は関西から空路、徳島・香川へ。四国4県の集いにそれぞれ出席し、反転攻勢の闘争開始を宣言したのである。

「とうとう来ましたよ! 約束を果たしにまいりました!」
完成間もない徳島講堂に、先生の力強い声が響く。記念の勤行会に出席した先生は「どんなことがあっても、今日は一目でも一足でも、徳島に入って約束を果たしたかった」と。
同日の夕刻、先生は徳島文化会館(現・徳島平和会館)を初訪問。徳島のリーダーらと懇談し、一人一人の奮闘に耳を傾けつつ、“皆から愛されるように頑張りなさい”と指導した。
懇談に同席した井上さんは、「“絶対に先生を裏切らない。実証を示して、必ず学会を守っていこう”と決意しました」。
産後の肥立ちが悪く、体調を崩した井上さん。わらにもすがる思いで他宗教を転々とし、たどり着いたのが学会だった。
「入会する時は、夫も家族も皆、反対。でも、御本尊の前で初めて勤行した時、なぜか涙がポロポロ出てね。口で言い表せないほどの感動、喜びが、命から吹き出してきたのを今でも覚えています」
唱題に励む中で体調を回復した井上さんは、農作業に精を出し、家族にも誠実に尽くした。その姿に、保さんや他宗の檀家総代をしていた義理の父など、家族や親戚も信心を始めた。
「ただただ池田先生の指導を学んで、学んで、ひたすら実践してきました」と語る井上さん。圏婦人部長を務めていた時には徳島講堂で総会を開催。雪深い地域から十数台の貸し切りバスで大勢の部員、友人が参加した思い出は忘れられない。
地域では吉野川市の老人会会長などを歴任。現在は近隣の高齢者が参加する体操グループで中心者を務めている。
保さんは小学校校長などを歴任。長女の千賀子さん(同、婦人部副本部長)も幼稚園の園長として、教育の道で奮闘した。次女・葉子さんは婦人部本部長、三女の里美さんは地区副婦人部長として後継の道を進む。
まもなく87歳を迎える井上さん。「今、30代の青年と仏法対話しています。先生にご恩返しするには、広布拡大しかないですからね」と、自ら決めた誓いの道を歩み続けている。
◆◇◆
徳島での指導を終えた池田先生は、瀬戸内海を望みつつ、香川の四国研修道場へ。記念幹部会(11月10日)で呼び掛けた。
「もう一度、私が指揮を執らせていただきます!」
「私の心を知ってくださる方は、一緒に戦ってください!」
その宣言に真っ先に呼応したのは、四国の青年部であった。
11日夜、研修道場に集った青年リーダーたちは「我々の決意を込めた歌をつくろう」と決め、夜通しで作詞を続けた。
翌日、懇談会直前に歌詞が完成。「歌の中に先生の魂を入れてください!」と懇請すると、先生は「1行目が勝負だよ。太陽が、ぱっと広がるような出だしでなくてはいけない」と。
冒頭の「ああ黎明の」を「ああ紅の」と書き換え、メロディーを口ずさむ。行事の合間を縫い、先生は青年部と対話を重ねながら歌詞を紡いでいった。
直しが入った歌詞を、男子部メンバーによる即席の合唱団が歌い、それをカセットテープに録音して先生のもとへ。推敲は二十数回に及んでいる。
合唱団の一人が、男子部部長だった武智利明さん(総愛媛、支部長)。待ちに待った先生の四国訪問を聞き、愛媛・松山から四国研修道場に駆け付けた。
「言葉が一つ変わるたび、歌全体が劇的に生まれ変わるようでした。同志を思う先生のお心に、身が引き締まりました」
「紅の歌」の3番冒頭の歌詞について、先生は語っている。
「今日の創価学会は、君たちのお父さんやお母さんが、世間の非難中傷を受けながら、必死に築いてきた」
愛媛広布の草創期に入会し、一途な信心を貫いてきた母・タミ子さんに続き、武智さんは中学3年の時に入会した。母子家庭で生活は困窮していたが、日大講堂での高等部総会や夏季講習会には、旅費を工面して武智さんを送り出してくれた。
地元の大学に進学後、二十歳を迎えた武智さんを見届けるかのように母が亡くなった。
武智さんは友の励ましを支えに、苦学を重ねて卒業を勝ち取り、学校事務職員に。“亡き母の分まで一人立とう”と、広布に走った。
「『紅の歌』を通して、信念に徹する生き方を教えていただきました。感謝は尽きません」
今月15日に入会50年の節を刻んだ武智さんは、総愛媛の国際部員としても積極的に活動。後継の子や孫と和楽の実証を示し、県のレスリング協会監事としても活躍する。

 「“すごい歌だ!”と、推敲が重ねられるたびに、皆が頬を上気させていました」
そう回想するのは、森本龍己さん(高知総県、本部長)。
「紅の歌」の推敲作業が続けられていた11月13日、四国研修道場では高知支部結成25周年を記念する勤行会が開催された。森本さんは創価班として場内整理を担当していた。
先生は勤行会の参加者をはじめ、各部の友や役員を激励し、多くの友とカメラに納まった。その合間を縫って、同道場で歌の作成が進められた。
会合後、駐車場で誘導に当たっていた森本さんが、全参加者が帰途に就いたのを見届けた時のこと。目の前に車が止まり、池田先生が降りてきた。
「記念撮影をしよう」
寒風の中に凜と立つ労をねぎらい、感謝を語る先生。その写真は、森本さんの自宅の仏前にずっと掲げてある。
「あの時、寺に行くたびに、“学会では成仏できない”と中傷されました」。葬儀や法事の場で、これ見よがしに学会を批判する宗門僧の仕打ちに、同志は耐え忍んできた。
「先生の激励に、“広宣流布をしているのは、他の誰でもない。私たち学会なんだ!”との誇りが湧き上がりました」
高知・いの町で建築業を営む森本さん。昨年は3人、本年は5人に弘教を実らせた。
「『紅の歌』の『魁光りぬ丈夫は』の作詞を通し、先生は『男子部は先駆たれ。一人一人の戦いが“光る”ことが大事だよ』と教えてくださいました。一つ一つの会合に、まず自分が、学会の素晴らしさ、師匠の偉大さを語り抜いて集う。そのリズムで今も戦っています」
森本さんが中心となって結成した圏壮年部の「土佐龍馬合唱団」は今年で10周年。広布を担う多くの人材を輩出している。
◆◇◆
81年の四国指導で、先生は、後継の若き友とも幾多の出会いを刻んだ。師弟共戦の魂は今、次の世代に脈々と流れる。
11月13日、岡宏子さん(香川総県、圏副婦人部長)は、長女・英子さん、長男・秀浩さんと共に、四国研修道場で師と記念のカメラに納まった。次男・俊雄さんも、師と握手を交わした。
「先生は未来部員に温かく声を掛けてくださいました。子どもたちにとっても忘れられない原点となりました」
岡さんは60年(昭和35年)12月、高校時代に入会。女子部では部隊長も務めた。68年(同43年)6月の四国本部幹部会では、清掃の責任者を。開会前に作業を終え、会場の側で待機していた時、思いがけず師との出会いを結ぶ。
先生は陰の労苦をねぎらい、岡さんと握手。「いい奥さんになるんだよ」と声を掛けた。その年の末に、茂雄さん(同、副県長)との結婚が決まっていた。「生涯、師弟に生き抜こうと誓った瞬間です」
だが、結婚直後に茂雄さんの勤め先が倒産。さらに起業した会社が、オイルショックの影響で再び倒産の憂き目を見る。
岡さん夫妻は“今こそ宿命転換の時”と定め、祈り抜く。茂雄さんは木工製品の製作会社を立ち上げ、懸命に仕事に取り組みながら、学会活動にも一歩も引かずに挑戦。県の副青年部長まで務め、先生の四国訪問の折には役員として何度も任務に当たった。今、会社の業績は、堅調を維持している。
師と出会いを刻んだ3人の子どもも、後継の大道を。長女の英子さんは香川で支部婦人部長、長男の秀浩さんは地区部長、次男の俊雄さんは副支部長として広布の最前線で奮闘する。
「子どもたちが広布の志を継いでくれていることが、何よりの喜び」と岡さん夫妻。報恩の心で友情のスクラムを広げる。
◆◇◆
池田先生は、四国を「志国」とたたえる。
第1次宗門事件という広布破壊の障魔の嵐が吹き荒れた時、四国の友は、師弟という一点に徹し抜いた。
さらにまた、先生は四国を「詩国」とたたえる。
先生が「桂冠詩人」の称号を受章して、初めて作詞した歌は「紅の歌」である。81年の四国指導の数々の激励は今、「励ましの詩」となって一人一人の心に深く刻まれる。
先生は、“反転攻勢”の天地・四国への万感の思いを詠んだ。

広布史に
輝くロマンの
詩国あり
師弟で綴らむ
凱歌を未来へ