


信心の極意は、何があっても御本尊に向かい、題目を唱え抜いていくことしかありません。 この姿勢を貫き通していくことが、〝御本尊根本〟の信心であり、それが正心なんです。

本日の御書 夫れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけをかひぬればたうれず、本より生いて候木なれども根の弱きはたうれぬ、

一念が変われば、自分が変わる。自分が変われば、環境が変わり、世界が変わる。この大変革の根源をたずねれば、御本尊に向かう自分自身の「祈り」の革命的深化にほかならない。

「死物狂いで頑張っていると、次々に、自分になかった力が出てくる。 いや、持っているのに出さなかった力が湧いてるんだな」

〈名字の言〉 2022年7月19日 明治初期、戊辰戦争で焼け野原となった長岡藩に、米百俵の支援が届けられた。

壁を乗り越える挑戦自体が、自身の境涯を確実に広げていく因となることは間違いありません。戦えば必ず生命は変わります。宿命は絶対に転換できる。

無明に敗れるのか。それとも仏性が勝るのか。御書に「妙法の大良薬をもって一切衆生の無明の大病を治せんこと疑いなきなり」と。広宣流布は単なる組織の拡大ではない。自他共の尊厳を信じ、輝かせる挑戦にほかならない。

最も身近なところで、 仏法を弘めていくというのは、 地味で、それでいて、最も厳しい戦いといえる。自分のすべてを見られているだけに見栄も、はったりも通用しない。
